そろそろ正直に話す時だと思うよ
2014.08.20
広島はずっと雨でした。此の度、土石流の犠牲になられた方々に手を合わせ、残された親族さんに想いを馳せたいと思います。
ここ最近、広島と大阪の往復も多く、様々な告知を下さった方々に返信すらしてなかったこと申し訳なかったです。
今現在、音楽に関わってないですが、僕の場合、音楽は協力者が必要なので、今は一人で出来ることを、たとえば、お坊さんの難しい試験を受けてみるとか、買ったまま読まずに凝固していた推理小説や、哲学者や仏教書を丁寧に読み溶かすとか、少し油絵やってみるとか、短編小説の構想を練ってみるとか、可否は無視して小さな旅行の計画を立ててみるとか、自己中心でありながらも目線を少しだけ上げてかすかに俯瞰でご飯が美味しく食べれるかどうかの試験飛行の毎日です。
いつまでこの状態で遊べるかわかりませんが、音楽を設計して奏でて一過性ではなく自他共に「必要」と感じる時間と空間を誰か複数とドロンコになりながら産み続ける勇気も覚悟も今は失せてしまったので、こういう時こそ安易に関わっては必ず迷惑と嫌悪を近しい誰かに与えてしまうと年齢から学んだ年の功、今しばらくは一人手足の届く範疇で「花とアン」の言うところの「想像の翼を拡げて」いるのです。
そんな暮らしだからこそ時折、外部からの刺激が必要です。そんなこんなの話だす。
縁あってチケットを戴いたので行って来た昼間の天満天神『繁昌亭』
——-「噺家という家業は時に地方に呼ばれることなんぞありまんねん。そういう時は仕事とは言え観光気分でほんまありがたい。
先日なんぞ北海道は根室へ。菜の花畑と根室湿原を両側に眺めながら二両編成のワンマン電車でトコトコ行くんですわ。そらもう最高のロケーションでっせ。と、思ってたら突然電車が止まりましてん。そして車掌がマイクで「あちらに見えるのがエゾシカです」やって。
ほんでこちらにおりますのが「噺家です」ってか————
どーん。みんな笑う。愉快愉快。
気温の話から、世相まで。食べもんからイデオロギーまで。繁昌亭で見た噺家はみなさん素晴らしいマクラをお持ちであった。
本題に入る前の大事なイントロ。
オチというクライマックスへソフトランディングする為の第一翼。
落語というのは改めて思うが無駄がない。
創作落語は個人差があるから置いておいて、とにかく古典にしかほとんど興味がない自分としては、この落語というエンターテイメントは最もスリリングな総合芸術だと思う。
船頭(噺家)は鍛えた技術で一心に漕ぐ。
こちらは(木戸銭払って)一方的に聞く(乗せてもらう)。
時空を越えて生き生きと登場人物が動き出す。一瞬でスマホの時代から徒歩の時代へ飛べる。こちらはただ座っているだけなのに。
こんな贅沢は他にない。
開演から4時間、しっぽりと昼公演を楽しませてもらった。退屈な時間はなかった。
平日の昼間、空席なしの大繁盛。
落語離れが嘆かれ、噺家が食えんから廃業なんていうて、一時期どっと落語家が減った、そんな時代を越えてこの繁昌亭は大成功だ。
今、上方落語には噺家270人くらいがおられるらしい。毎日の寄席の数、噺家が壇登できる場所など考えても需要より供給の方が多い状態に思う。しかし、噺家としての職業が成り立っている人がテッペンから末端まで270人くらいおるという事を僕はとても感慨深く思いながら落語を聴いていた。
ここ繁昌亭にて朝、昼、夜と寄席に出る噺家は一日15人程度です。一週間同じ顔ぶれ、同じ順番で組まれている。
まったく顔も名前も知られてない研究生みたいな人からテッペンの人気者まで繁昌亭は飲み込んで上手に消化している。
しかも連日満員だ。当然、演者にもスタッフにもしっかりギャラが入る。これまで食えなかったラインの噺家が今はしっかり食えて、その余裕の中でしっかり芸を磨いている。この繁昌亭という発想は素晴らしいとつくづく思った。
そして何より、この動員力の源は現代日本が否定した、否定しようとしている「ヒエラルキー」(不平等)であると強く思うのだ。
教師の権限、支配権を狭めソフトな関係を模索するが、多くの場合舐められ生徒に脅される教師。(迎合教育)
ソフトイメージを打ち出したい相撲協会。横綱のヤンキー化。横並びの関取、向上心なき土俵。(砂漠化する国技)
非正規雇用を減らすし、男女雇用は均等に、と言いながら大企業にばかり美味しい人材の墓場と化した奴隷市場。(格差カムフラ)
現代はイメージの世紀です。
年功序列を廃した頃から日本人は表面的には「先輩後輩の垣根なくアットホームな職場」など掲げて企業イメージを上げ、個人的には「うるさい先輩は嫌われるから後輩にやさしくしよう」と「迎合」に向かった結果、総体的にシステムと人間が劣化してゆくように、実際の世の中は葬式代出すくらいなら美味しいもん食べた方がマシや、という結構余裕あるのにお金の使い方に迷子になっている一家や、リアルに葬式出せない、出したくてもそんなお金ない、と泣く泣く直葬に出す一家のように、振り幅が極端に広いアンバランスな、まさに『自己満足』「自己充」の時代に突入したと感じている。
「自己満」を自己実現の重要な指標にしていると他者の「リア充」を許容できなくなる。
他人の自己満は自分の排斥運動だと感じてしまう。
自分以外を認めない独特の空気が『間違いを絶対に許さない社会』『許容のない世界』=『処刑社会』を表層させている。
なまぬるい教室、ボーダレスな土俵、法を説かない坊主、アットホームな職場、何も教えない先輩、嫌われたくない先輩、ありのままの後輩、本当の僕のままでいたい後輩、こうやって劣化し、成長が止まる伸び盛りの少年少女たち。
ほんの数年前までこんな様子じゃなかった。
色んな事がとても美しく整然と関連し合って「或る一方的な方向へ」駄目になっていっている様子がとてもはっきりと感じ取れる。
駄目な方向というのは「安易な」というニュアンスだ。
または「手間」を省くという習慣である。これによって「心」がやせ細っているというのがここ数年の世界の印象である。
一度シャットダウンして根本から問い直す必要がある。
それは正直に伝え合う、ということだ。
君は友に。親は子に。子は草や花に。
—————この世界は「不平等」「不均等」「左右非対称」「不格好」であるという事を————-
人間は一人では生きられないということは、すなわち三日に一度は部屋の窓を開け放って、少なくともポケットには硬貨数枚を入れて、生きる為に他人と関わり、経済活動を通して労働とその価値を集団生活の中で見いださなければならない、という『過酷で手間の掛かる生命体』であるということを大人ははっきり子供に教え、師匠は弟子に教えなければならない。
地球上で原理、原則、法則に則り生きる動物は全て逆三角形のヒエラルキーの安全システム、或る言い方では必要淘汰の為の食物連鎖の下、それぞれに持ち場と責任が発生し、それを遂行することで日々の暮らしが成り立っているという事実は一応踏まえた上で世に言う「平等」を考えるべきじゃないだろうか。
上に行けば上に行く程、責任が重く、決断するべき要所も難所なのだ本来。
だから地位と名誉の他に信用と、そして信託としての金が与えられる。
そしてその多額の報酬は「当然のこと」として末端に至まで許容されていた過去に於いては。
それは上の立場の人間がそのことを理解してこその話だ。
たとえば理研の自死されたあの教授の如く「事が起これば命を掛ける」というヒエラルキーの掟。
ピラミッドの上の方で暮らすという事は同時に多くを失うという覚悟あっての事である。
利権の世襲などによって腐敗し始める覚悟なき金持ちの出現は「嫉妬」を生むだけだ。他にはたとえば金融や先物取り引き。
末端のその感情を知った上層階に住む特権階級はカムフラージュとしての「ソフトな」「ポエムな」言葉とイメージによって大衆を煙に巻こうとしている。
これが原発事故以来の日本の本当の惨状であり、焼け野原であり、精神的被曝だと強く感じる。
喩えば「がんばろう日本」のステッカー。放射能の真実を知れば知るほど「がんばり方がわかならい日本」である日本と向き合わなければいけない。その間も最終処分場も処分の仕方もわからない。どう頑張るべきか。
—————-僕らはそろそろ思い至らなければならない————–
現代の僕らが嫌悪し、憎悪するその醜く、アンバランスで不平等な社会の中でこそ偉大なリーダーが繰り返し生まれて来たことを。
そういう不都合なことをそろそろ真剣に考えなくてはならない。
—————未来あるバンドマンが————–
仲間内でイベント打って、顔見知りばかりのお客の中で楽しい時間が過ぎて、打ち上げで一杯飲んで課題を酒で流し、互いに褒め合って気持ちよく明け方の商店街を歩いていては安眠は得れても佐藤伸治や大滝詠一には永遠になれないことに触れるメンバーに巡り会わなければならない。もしくは触れる自分にならなければならない。
————–要するに—————
繁昌亭は連日の大入りで、今まで噺家で食えなかった末端の方々がしっかり食えて、その余力と感謝を原動力に芸を磨き、再び繁昌亭に戻って客に還元する、という社長室に置いてある高級な淡水の水槽の濾過器のような安定感で運営されているのを肌で感じて、なぜ、それが「一旦は落ち目と言われた落語の世界」で可能だったか、を考えると、これは完全に落語界ではヒエラルキーが破壊されることなく存在していた事に尽きると思うわけである。
噺家は一門制である。
それぞれにカリスマ的指導者がいて、複雑な人間関係がある。
自分勝手に生きれないし、ご飯も食べれない。
何年も兄弟子の下で所作、礼儀を身につける。そして上のモンが下のモンを庇護する。これが延々繰り返される。
落語界不遇の時代は、下のモンがどうしても落語で食えず、仕方なく廃業して着物からスーツに着替えてハローワークに通う姿を見送ったテッペンの人たちは、下のモンの為に、そして自分らが生き残る為に必死に智慧を絞った。
その苦悩の果に繁昌亭というアイデアがあるのだろうと思うと、一門制、強固な上下関係という絶対的なヒエラルキーの中で生きるからこそ、テッペンにおるものは下のモンの生活が良く見えたやろうし、庇護したいという気持ちも責任も強く感じ連帯が生まれたのだと思う。
———-この世界は、いや、人間の作った世界は「不平等」「不均等」「左右非対称」「不格好」である———
しかし、間違ってはならない。
どんなに人間が愚かでもこのことは手間を掛けて、音楽や映画、アートや宗教によって伝え続けなければ駄目になる。
何が「不平等」で何が「平等」でないのかを。
不平等なのは責任と報酬であるが、それとは全く別個にそれぞれの「存在=いのち」は「平等」でなくてはならない。
これが健全で真理に基づいた世界であるはずであるのに、どこで間違えたか。
———今の世界はね、こうだよ。
命には差があって「不平等」らしく、責任はほったらかして、報酬は平等にくれって。
今の僕はそういう動きに怒りで応える音楽をとっても聴きたい。
オモネルのでもなく、斜に構えるでもなく、不平等の世界で必死になって、鼻水か涙か分からんもん一杯放り出して、我がの仕事場を確保した奴らのひねり出す自走式の音楽や絵や本に触れて怒りたい。
怒りたい衝動はあっても今は焦土。自覚の季節。
いつか言葉になって、音も添えられたら、その時は怒気よりも報謝。
オチはご勘弁。不慣れなもんで。
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