アキラメルということ | ha-gakure

アキラメルということ

2014.08.29


子を失う、ということ。

出会うなら別れがある。
始まるなら終わりがある。
生まれるなら死がある。

これが誰一人抵抗することができない万物の営みであり道理である。

この働きのことを人々は神とも呼び、仏教徒の僕はこれを真理と学ぶ。

仏教では真理のことを漢字で一文字「諦」(たい)と書く。
現代では悲観的に使われる「諦める」の文字だ。

本来「諦める」は「明らかにみる」が語源。
ちっとも悲観的じゃない。

人は「受け入れ難い現実」に対して「諦める」ことで初めて「明らかに観る」ことが出来る。結果、一歩前へ踏み出せる。
明らかに観て、諦める以外に前に進む方法は地上には用意されていないのだ。

『諦』とはすなわち「真理」に従い、受け入れ難いことを受け入れてゆく唯一の方法である。
であるが、時間が必要だ。とても時間が必要だ。

「もう自分には他に方法がない」と枯れ果てるまでの長い時間が必要だ。

そこに行き着くまでに「楽にさせてあげるよ、楽になる方法があるよ」と誘惑する人にも遇うだろうが、右往左往しながらでも、何とか「もう駄目、もうどうすることもできない」と思い知るところまで辿り着けば、後は「宿縁に従おう」と頷く世界が開けていることに気が付く。これは救いなのだ。これこそが救いなのだ。

簡単に「救い」と言ってはならぬ。
死後に天国に行くこと、仏になることが救いなのではない。

地獄のような日暮しの中にこそ「救い」はなくてはならない。
しかもそれは「与えられるもの」なんかじゃない。
君が血みどろになって自分から掴みにいかなきゃいけない。
その格闘の果ての「無力の荒野」にこそ美しい夕日は落ちるのだから。

急いではいけない。
簡単な言葉に騙されないで。
始まりがある、という事は終わりが来る、という事なんだから。
この苦しみにも終焉の時が必ず来るのだから。

ただ時の経過を信じて。

———————–子を、失う、ということ———————-

僕が五歳の時、弟が死んだ。
僕の下に三歳離れた弟がおって、その下に弟がおった。

弟は一才の誕生日を迎えることなく亡くなった。

その日の朝、僕は普段そんなことしないのに弟が寝ている部屋に行き、ベビーベッドでスヤスヤ寝ている弟の顔をシゲシゲと覗き込み、
ほっぺにキッスをして「よーちよーち」と胸をトントンとして幼稚園に行った事をハッキリ覚えている。

亡くなった弟との唯一の思い出がこの日の朝の事であるから本当に不思議だ。

三時に幼稚園から帰宅したら布団に弟が寝かされ、その周りを囲むように沈痛な表情の母とお婆さん、そしてドクターが項垂れて座っていた。

この時の様子も良く覚えている。

今朝、よーちよーちした赤ちゃんの顔に白い布が掛けられていた。子供ながら恐ろしく思った。

お婆さんに手を引かれ、違う部屋に連れていかれた所から記憶はない。

僕の記憶はそこから葬式の様子へ飛ぶ。

この前後、母は一環して可哀想であった。

葬儀が終わり、焼き場に行って、いよいよ炉の中に赤ん坊が入れられる時、それまで憔悴し切って木像のようになっていた母が急に小さな棺にすがって大声を上げて泣きに泣いた、という話を大人になって近所の人だったか、親戚だったかに聞いて、いつもマイペースで大きな声も出さない静かなあの母が、と不思議でもあり、哀れで心から可哀想に思った。

しかし一転して、集骨の時、拾う骨もない小さな小さな骨を探して骨壺に入れる母が、黙々と、静かに骨を拾っていた、という話もその人はしてくれた。

火葬場にも、集骨にも行かなかった五歳の僕は、その二つの様子を聞いて、当時二十歳そこそこの若輩ながら「親になるという事の心得」というものに少なからず触れたような気がしたものだ。

赤ちゃんの葬儀から百日余、母は泣いて暮らした。

所々の記憶にある母はいつも泣いていた。
笑ってたかと思うと泣き出したり、またその逆もあったり。

ある日、母と三歳下の弟と風呂に入っていた時のことは良く覚えている。
兼ねてより弟と共に、母のことを悲しんでいた我々兄弟は、母にあることをお願いしようと約束し、風呂の中でそれを伝えることにした。

「おかあちゃん、赤ちゃんもう一回産んで」

母の空白を埋めるものは「赤ちゃん」なのだ、それしかないのだ、というのが我々兄弟の唯一の解決方法だった。
もう一回赤ちゃんが産まれたら母も父も元通りに元気になる、と。

今思えば非常に安易な発想であり、無理なお願いだったが、その後、本当に赤ちゃんが産まれた。

—————-時は流れ————————-

「もう一回赤ちゃんが産まれたらお母ちゃん元気になるよね」

と、話していた三歳下の弟は24歳の春、櫻が満開の東京の下宿先で亡くなっていた。

母から職場にて一報を受け、僕と、一番下の弟とは伊丹空港から東京の五反田の警察署へ向かった。
どうやって五反田まで行ったのか、ほとんど覚えていない。
道中、弟と二人、運命を受け入れようと必死だった。

警察署の地下に弟は安置されていた。
先に到着していた父と母が気丈に迎えてくれた。

僕らは確かに弟と対面した。
弟は本当に死んでしまっていた。

その日は弟の部屋に泊まった。
彼は不在だが、久しぶりに一家集まったような気がした。

夜は近くの中華料理で食べた。砂の味がした。

店内には他に誰もいない。
薄暗い閑静な住宅街にポツリと「中華料理」と書かれた黄色いネオンが淋し気に灯るイカ釣り漁船のような店だった。

とんねるずがやってるバラエティ番組の騒がしい声だけが店内に響いていた。

油が地図のように滲み込んだ白衣を着た大将がタバコを吹かしながらカウンターに座って、その番組をニタニタ観ているのを見て、とてもうらやましく感じたのを覚えている。

何もない日というのは得難い幸福なのだ。

ディナーの時間をとうに過ぎた22時前に、家族4人で乾いた住宅街の中華料理屋に入って来た僕らが、まさかたった今、死んでしまった未来ある若い家族の一員と警察署の霊安室で対面して来た、その帰りだとは思わないだろう、と可笑しくも思ったし、また、そのことに気が付かれないように明るく振る舞ったことを今は懐かしく思い出す。

「懐かしく思い出す、、」いや、そうではない、と背中を蹴り付けるもう一方の声がある。

弟は東京で荼毘にふされた。

斎場のサクラが満開だった。

僕は家族と共に火葬場には行ったが、集骨には行けなかった。
正確には行きたくなかった。
とてもじゃやないが、弟の骨をみたくなかった。

父と母が集骨に行っている間、僕は弟と東京の何処かの水路際に延々と咲く櫻を見ながら歩いた。
とても綺麗だった。東京のことをとても美しく思った。

弟の骨から逃げた僕の頭上に櫻が舞い散り、その隙間から完璧な青空が溢れていた。

焼かれて、骨になった、という事実に対面する勇気も智慧も備わっていなかった、という未完成な言い訳を弟は許してくれるんだろうか。
街には色々な想いを抱えながら歩いている人がいる。
みんながみんな、目的地へ向かっているだけではないのだ。

その時の僕は、ただ「逃げる為に歩いていた」

その事は一生の後悔である。
思い出す度に、櫻を見る度に、深いところが疼く。

だけども、そのことを超える為に詩を書き、唄を謳った。これからもそうだろう。

弟は死んで僕に道を与えてくれた。
無駄には出来ない。その時の僕は強く心に誓った。

あれから随分と時が経った。
色んな大切なことが色あせたし、ポケットから溢れてしまった。
かつては非日常だったことが、いつの間にか習慣になり、幾つかの大切な風景や気持ちにも慣れてしまった。

そして母は二人の子を失った。

————————今、親になって———————-

子を失う親の姿を至近距離で二度見て来たが、その心の深い所となると想像する以外にない。

究極の所、家族であっても僕の想像を超える「痛み」には共感できない、というか、共有したいと思っても近寄れない。

人間は最終的には孤独なんだと思う。

だからこそ不可能であっても人間は心寄せようと思うのだろう。
その為に「想像力」はあるのかもしれない。

縁あって親になった。

夜中に目が覚め、薄明かりの月明かりの中、隣りで小さな寝息をたてて眠る赤ん坊を、ジーと眺めながら、こんな小さな体の中で心臓が刻々と脈打ち、未完成な臓器がそれなりに機能し、毛布のように柔らかく頼りない胸が規則正しく上下し、その可憐な唇から微かな息がもれるのを聴いていると、いつ、壊れても不思議じゃないという恐ろしい気持ちになる。
同時に良く生きていると不思議になる。

—————-呼吸するトレーニング————

ha-gakureの「光」という曲中で「息てるだけでいいから」という一節がある。そこにはいつも魂を込めて謳っていた。

「息てる」このフレーズは亡き弟が死の直前に自身の個展で使用していた言葉である。

まだ自我の目覚めが訪れていない我が子の寝息を聴きながら、「息てるなぁ」とつくづく感じ入るのである。
「息てるだけでいいから」これは残された者の、家族の悲痛な想いである。

しかし、人は生まれては死んでゆく。
その流れはガンガーの流れの如く止めどない。

この子がいつまで生きれるか、10歳、20歳と年を重ねられるか分からない。

ある日の午後、クライアントとの商談を終え、無事にまとまった、どこかで珈琲でも飲んで帰ろう、と歩いている頭上から工事現場の鉄板が落ちて来るかもしれない。

交通ルールを丁寧に教え、危険を予測して安全に帰宅しなさい、としっかり教え、子供も健気に守って横断歩道では手を挙げ、止まってくれた運転手には頭を下げ、本当に毎日を丁寧に生きていたのに、脱法ハーブの車が歩道に突っ込んで来てはどうしようもない。

過酷な程、一方的に、絶望的に想定外の運命に自分が立ち向かわなければならない事が「ない」とは言えない。
そういうことをフト、考える。しげしげと考えてみる。

薄明かりの中で無垢な寝息をたてて眠る我が子に、どんな未来が待っているか想像もつかない。
未だ訪れない未来を案じている訳ではない。そんな贅沢を申しておるのではない。

如何なる事が起ころうとも、自分はその事実に従うことが出来るかどうか。
時間は掛かろうとも、母のように呼吸が出来るだろうか、そういうことを思いながら時折、呼吸するトレーニングをする。

—————道はいつも開かれている———–

時間は偉大である。

どのような傷も元通りに癒す。

時間の程度は各々ある。
だから他者と比べてはならない。

生きている限り、いや、息ている限り「癒えない傷はない」

今後、僕らがどのような致命的な傷を得ようとも「息てる」限り「道」は開かれているのだ。

「息てるだけでいいから」というフレーズは遺族の言葉だと思っていたが、これはこれからを生きる自分自身に必要な言葉であった。

息てる限り道は続いている。

今の母を見ているとそう思うのです。

このブログを一体誰がご覧になっているのか分かりません。誰一人見る方もおられないかもしれない。

しかし、明確な目的を持って書きます。
全ての我が子を亡くされた方々へ送ります。