ちぎれた耳のわけ | ha-gakure

ちぎれた耳のわけ

2015.09.18


ハイテンションな真夜中の参院本会議をネット中継で観ている。

心配はたったひとつ。

「どうとでも解釈できる」だ。

その解釈は時の政府次第。これに尽きる。

人間だしね、基本、状況によって親も殺し、子も殺す人間がやる政府与党に委ねるんだもんね。

ほんま、えらいことになったわ。

—————————夏————————–

この夏、貴重な体験をした。どうぞ知ってください。

元日本兵として南方の島々へ送られ、終戦までに20万人が(信じ難い、、)戦死した悪魔の密林と呼ばれたフィリピンのルソンの戦いを生き抜いた或る老人の戦争体験を聞く機会を得た。一対一で。亡き息子さんの骨の前で。

「世間ではこいつ(子)は親より早く逝きやがって親不孝じゃっちゅう奴もおるが、そんなこたぁない。こんなええ時代に生きれて儂もこいつも幸せなこっちゃ」

そう言って汗を拭われた。

参考までにルソンの戦いとはどんな戦争だったか。以下、

◎末期の戦闘状況————————————————-

大半がジャングルのルソン島の日本軍は、食糧の補給は完全に途絶えて餓死者が続出し、マラリアや赤痢にかかる者が続出した。部隊としての統制は乱れ、小部隊ごとに山中に散開して生活していた。

降伏は固く禁じられていたため、伝染病にかかった者はそのまま死ぬか自決。

飢えた兵士は食糧を求めて村や現地人を襲い、戦争どころではなくなった。

降伏までに日本軍は20万人が戦死あるいは戦病死した。

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戦争どころじゃないね。。食料探しの毎日。。

老人が戦争体験者というのは年齢から察して知っていたが、まさかあんな過酷な体験をされているとは思わなかった。

なぜそのような話になったかというのは、ひょんなことから、この頃「野火」という大平洋戦争時、南方の島で起こった日本兵による人肉食いを題材にした大岡昇平氏の小説の映画を見たという話になって、その流れで「、、、実は」ということでポツリポツリと話し始められたのである。

「もう誰にも話すこともないから」と老人は淡々と語られた。

「中国へ送られる奴が羨ましかったよ。わしはフィリピンじゃと聞いて、あぁ、こりゃ帰って来れんな、と覚悟したもんや」

南方へ送られるということはそういう事だったようだね。

もう駄目だなと分かっててこの老人もそう、みんなもそう。黙って家族に手を振って行くんだからね。

「カッコいい」とか「さすが日本兵」とか言うなよ。こんなむごい「空気の読み方」があるか。

「補給、弾薬尽きて、マラリアと飢えでジャングルにへたり込んだら、隣りに肢体が飛び散った腐乱した日本兵の死体がある。回りを見たら同じようなもんが無数にある。それも何とも感じひん。あぁ自分ももうすぐこうなるんやなぁ、と思っただけや」

老人は、死の予感を察知して顔に群がるハエを追い払い、多くの日本兵がそうであったように、三十八式歩兵銃に自決用にと残しておいた一発の弾で頭を打ち抜くか、自決用に取っておいた手榴弾で五体を虚空に放り投げて死ぬか、しばらく考えた後、手榴弾に決めて信管を引き抜いたが不発であった。

「手榴弾が駄目だった。こうなると、いかなる人間でも命が惜しゅうなるもんやな。今度は小銃で頭をぶち抜こうと思ってな、バーンと、こう、引き金を引いたら、性根がないのと、マラリアで熱があるのと腹が減ったるので力が入らんでな、ほれ、耳を半分飛ばしただけでそのまま分からんようなってな」

その後、どうやって老人が助かったか、その話はなかったし、当然、聞きたい気持ちもなかった。好奇心で聞けるような話ではなかった。

僕はただ、老人の千切れた右の耳の上半分に視線を合わさないように頷くだけだった。

老人は補聴器の調子を直した後、こう言った。

「何にも知らん奴は勝手に死んだ奴のことを英霊とか言う。特に今の政治家。それは違うで。わしらはみんな国に殺されたんや。言わしてもらうが、国の為に死んだのは職業軍人だけや。その職業軍人も多くは机の前で鉛筆舐めとるだけや。殺されたんは全部大工の息子やら酒屋、絵描きや学生、どこにでもおる気のええ奴らじゃったわ。そんな優しい人らが人間の死体を見ても何とも思わんようになるんやで。友達を殺してでも水を飲もうとするんや。そうやってまでしてやっとこさ水飲んだ奴も、そのうちジャングルで腐って死んで行くんや。地獄としか言いようがないですわ。人間なんちゅうもんはモロいもんやで。置かれた環境でコロコロ変わりよる。覚えときや」

————–戦争のことはここで置く—————-

日本から遠く離れた太平洋の、極東の、至る所に「お国の都合で殺し、殺されて来い」と言われ放り出された人たちの白骨が放置されたまま散らばっている。

全部、ではないだろうが、少なくとも力尽きて捕虜になった日本人にパンを与え水を与えたのは日本政府ではなくアメリカだった。

日本の偉い人たちは何をしていたか。

生きて虜囚の辱めを受けずと教育し、戦えなくなったら自分で死ねと玉砕を強制し、挙げ句、十代の少年に片道のガソリンと爆弾抱えさせ特攻させとった。

一撃講和したい国の都合で。

この頃には大本営も敗戦は分かっていたが、特攻で相手に損害を与え、少しでも条件の良い講和に持ち込むことばかりに執心。

誠に許せないが、それは今の時代で考えるから許せないのであって、当時の空気を吸って生きている僕が今と同じように「許せない」とは恐らく、残念ながら思えないだろう。

人間も権力も政治もそういうもんでしょう。はっきり言ってそれくらのもんでしょう。

平和な時代なら誰しも優しくおれますよ。こんにちは、こんばんは、ありがとう。

今の政府、権力者を見て「やさしいそう」と信じるのはどうかと思う。

今の政府、権力者なら「大丈夫、間違わない」ということが、今後100年も「大丈夫、間違わない」と信じるのはどうかと思う。

————–集団的自衛権——————-

当たり前だが、反対の人も賛成の人も「戦争はいや」だ。

他の人がどう思って街頭に出てデモに参加しているのかは知らないし、肯定も否定もする気はさらさらない。

しかもたった二度の参加では人の批判など以ての外だし、また不毛だろう。

ただ未来の自分の納得の為に、家を出て、自問自答の密室を出て、空の下、意思を声に出して、五体で表わしたに過ぎない。

何故か。

老人の話のままです。

統帥権を軍部に奪われたことから政治を好き勝手された過去の日本。血みどろになってしまった。血みどろにしてしまった。

そういう拡大解釈の果て、時代の混乱に乗じて「何でもアリ」「言うたもん勝ち」「声がデカい奴が勝ち」という「空気」を生み出さないようにと作られた憲法のはずが、国民投票、憲法改正という王道を踏破せずに「解釈」で突破しようとする、その開き直りの図々しさに、謙虚さの微塵も感じられないところに僕は怒りを感じたのだ。

言うときますが「権力は最終的には無責任」です。

霧散しますよ。

そして僕らも。

僕は賛成にも、反対にも互いに理があると思っている。

だからどっちになってもいいと思っている。

ただ一つだけ。

国民に信を問い、憲法を変えてから、という面倒な手順を無視して歯止めの利かない、要するに際限のない「憲法の解釈」で押し切ろうとするのが気持ちが悪過ぎるからデモに出たのである。

だってどんな解釈されるかは未来の権力者次第。

憲法を変えてくれたらどうなろうと腹も座るけど、やっぱ気持ち悪いよ。

デモに出る多くの人が同じ気持ちではないだろうか。

まぁ、もしかしたら拡大解釈可能な「真空地帯」を憲法に生み出すことこそが安倍さんの狙いなら相当に恐ろしいですが。。