瞳の奥に観る余生
2019.12.6
ペシャワール会の中村哲さんがアフガンで何者かに襲撃を受けお亡くなりになった事件には参った。虚しくて仕方ない。人間はどこへ向かおうとしているんだろうか。貴重な光がまたひとつ壊された。
中村さんは行基菩薩のような人だった。映像でしか姿は見たことがないが印象的だったのは目の座りだった。独特の透明感がある。それは恐らく迷いがないということだろうと思う。
きっと襲撃の時も目が泳ぐということはなかったんではないだろうか。
いつかこういうことがあっても不思議ではないという覚悟の上で生きてらしたように思う。死ぬ命を生きてらしたように感じる。仏教的にはそういう生き方を余生という。
死んで元々の命の使い道がはっきりした人の命の使い方である。
仏陀は29歳で迷いが爆発して家族も地位も仕事も全部投げ出して出家した。
そして35歳で仏陀になった。
彼はその時にもう死んだ訳だ。すなわち完全に解放された。世の中の理不尽な束縛や搾取や差別や区別の全部から解き放たれた。死んだということだ。
だけどまだ体が生きている。生きようとしている。あとはこの五体の使い道を考えた。それがもう与え続けるという生き方だった。これを利他という。
余生、そうもう余生だという意識なしには与え続けるということは不可能である。
仏陀の瞳は考えられないほどに深く澄み切っていたと思う。迷いがもうないのだから。
そういう印象を与える目の光を持つ人が稀にいる。俺はそういう目に敏感な方だと思う。なぜなら俺自身が途方もなく迷いの中にあるからだ。だからそういう瞳に異常な憧れを持つ。
俺はアフガンの星になった中村哲さんの目に同じ光の座りを見ていた。ただ打たれていた。
その人が無知な人間に殺されてしまった。こんな人に血を流させるということの罪悪を思う。
仏教では仏の体を傷つけて血を流させるという行為は重罪である。俺は犯人を許せないでいる。できるなら地獄のような後悔の中で人生を終えさせたい。
しかし中村哲さんはそれを望まないだろうとも思う。きっとそう思う。
同じ光を目に宿す人を他にも数人知っている。
忌野さん。国母さんもだな。友達のハヤトくんも。みんな何か難しいものから解放されている気がする。
俺にとってはそれはとてもとても難しく。困難で。でも、どうしようもなく居心地の良いものなんだ。慣れてしまったかな。
冬の朝の毛布から出れない。あの感じか。
それが厄介なんだな。
中村哲さん、俺は無念です。ただ、あなたの目を思い出すと何か心が奮いたつのです。
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