宇宙 仏壇 先祖 | ha-gakure

宇宙 仏壇 先祖

2012.02.17


宇宙 日本 世田谷みたいなタイトルですんません。
カンブリア宮殿で「仏壇のはせがわ」という仏教界唯一の上場企業の特集やってて面白かった。
仏壇って何だろう。
坊さんが何言うとるんや、と言われるでしょうがいつになっても真摯に問いに向かい合うことは大事よね。
仏とはなんだろう。
こんなん言うたら坊さんやめろ、言われるわ。
でもな肉迫する回答を提示できる坊さんがどれだけおるか。
これらのキーワードは「先祖」というワードと共に語られるだろうが、果たしてそうだろうか。
仏像を安置し、位牌や遺影を入れ、チーンとキンを鳴らし、手を合わすこのスタイルが形式化し、その手順に従っていれば何となく家内安全、祈願成就というような気持になるかもしれないが、肝心な仏壇の前に座る『今現在生きておる俺』のハートはどこへ持って行けば良いのか、これがKEYよね。
こんな内容、誰が読んで面白いのか相当疑問ですが、それでも何かのお役に立てば嬉しいな、という想いで坊さんの中でも相当偏った俺が、それなりに格闘しながら今現在導き出した想いというのを書いてみたいと思います。
あくまで「今 現在」です。常ではない世界に生きている以上、状況も気持もどんどん変わっていきます。俺には理念も哲学も思想もないです。あるのは「ぜーんぶ変わっていくもんなぁ」だけです。
はっきり申しまして、各宗派、教義を学ぶ機関は充実しておって、勉強する気力さえあれば知識はどんどん広がります。
だけど、「仏壇って何」という当たり前なことに完全なる回答を与えてくれる勉強の仕方はないと思う。ここは感性の問題だろう。だって仏壇も仏も大事に決まってるものだから、という事だろうが、それで本当に良いのだろうかな。
だからと言って俺に答えられる問題でもないですが、ちょっと時間を戴いて考えてみます。
仏壇に最低限必要なものが三つあってね。
お香、ローソク、花の三つ。これを三具足(みつぐそく)と言います。
仏壇の前に座る人は、そこで何を見て、何を感じるか。
お香は火を付けた瞬間、ローソクは火を付けた瞬間、花はいけた瞬間、「命が始まる」そして同時に「終わりへのカウントダウンが始まる」ことに気が付くことが大事だなぁって思うのです。
もちろん仏壇の前に座る「俺」も同じよね。
それはギターのチューニングみたいなもんですわ。
音楽も恋も仕事もご近所付き合いだってね、ほら初期衝動って大事でしょ?
70歳になってもパンクスで、何かと闘ってるパンクスは素敵やけど難しいよ。だってね初期衝動ってのはね恐くない状態だからね、だけど痛い想いする度に「もうこれはやめとこ」って学んで行くからね、すこ〜しずつ守りに入って行く運命にあるからね。
そういう事が積み重なって行くと、良いアイデアが頭に浮かんでもね「どうせ」って言葉が常に先走って来るようになってもうてね。
基本、人生ってのはだんだん歩みが落ちて惰性で進むようになっとんかね?
そういう人生だから、ちょいちょいチューニング、メンテ、点検しておいた方がリスクは少ないでしょ。
俺らが住んでいる世界は進んでゆく世界で、戻れない世界だから、端的に言うと「死に向かって進んでる」時間を生きてます。
という危機感をダイレクトに感じ取ったら、俺なんて多感な時なんてね「死ぬ為に生まれて来たようなもんじゃねえか」と途方に暮れることもありましたが、その時の純真な気持もいつか絶え、だんだん緩くなって来たね。
ほんまにね、この感覚を腹の底で受け取ったらね、人生は簡単になるよ。
だってね「もう死ぬ」ってなったらどうする?
優先順位がめっちゃ明確になるでしょ?
ローンとか組まんでしかし。今本当に必要なものしか手にしないでしょ。
これがずーと続く状態がTHE SATORIなのですな。
無理ですわ。
瞬間的にはなるかもしれん。だけど一瞬です。この状態が死ぬまで続くのは、、ないなぁ。
だけどね、一瞬でも凄くない?
余程のこと、たとえば死期を悟るほどの病名と余命を宣告されて初めて気が付き、あぁもっと早く気がついてればもっと人生に於いて価値あるものに全力を注げたものを!と思うこともとても尊いことです、が、出来ればそれは早ければ早い程良いです。俺はダメよほんま、書きながら赤面ですわ。
一体何が言いたいか。
仏壇の前に座るってのは、また仏壇を家に迎えるっていうことの最大の魅力は、先祖崇拝する為の道具にしちゃダメって心からお伝えしたのです。
不謹慎な坊さんと思われようが、もういいです。
この日記をたまたま読んで、縁があった人に俺は伝えなきゃいかんくらいの気持で言います。
仏壇の前に座ってね、香とローソクに火を付け、花をいけて、その終わってゆくものたちのサマを見て、俺も終わりに向かって走ってんなぁ、と感じてくれたら、「明日ええことありますように」なんて呑気に仏さんに祈ってる場合じゃないことに気が付くでしょう。自分で動いていくのですよ。呼吸があって、手足があって、考える智慧を持ってて祈ってるだけなんて愚の骨頂ですよ。
そう、仏さまというのは祈りの対象ではなく、我が身を映す鏡です。
明日の朝、目が覚めて初期衝動忘れてたって良いんです。
毎日、毎日、一日一回、瞬間的でも日々を修正できて、優先順位を明確にして、行動をシンプルに出来る場所があるなんて最高じゃないですか。
俺は仏壇屋の回し者じゃありません。
だからこんな事言います。
だから、はっきり言うて、それが仏壇じゃなくてもええんです。
毎日沈んでゆく真っ赤な夕陽がソレでもいいじゃないですか。
家に仏壇がなくたって、懐かしい人の写真の中の笑顔を見ながらココロを微調整して行ってもいいんです。
だってそういう場所を持ってるだけで人生ってきっと少し楽になります。楽になるっていうか、少し軽くなるっていう感じかな。
仏壇に話を戻します。
どうでしょう、仏壇って先祖を祀るだけの空間じゃないでしょ。
今を生きてる人たちの日暮しの為、そして自分の為の修理工場です。
仏教は死者の為にあるものじゃなくて、今を生きてる人の為にある、という事を伝えたく筆を執った次第でありました。
そして最後に、これは俺を支えてくれているものでもあるけど、心に刻んだ言葉。
『先に逝った命は全て、事情に関わらず還っていく。どこへ?とか野暮なこと言うな。迷うておるのは生きとるお前の方じゃ。四の五の言うな、お前がどんな理屈をコネようが、それが道理じゃ。
安心してお前はお前の日暮しをええもんにせえ」
合掌。