記憶に残る人の話 | ha-gakure

記憶に残る人の話

2012.02.9


愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ。
日本の歴史が好きで随分読んで来たが生かされてないのよね。痛い想いせな分からん性分。
だけど死は一回限り。
これはやり直しがきかんから愛しい人の死から多くを学ぶしかない。
賢人はそこから本気で何かを勝ち取り人生の一大転換を図るだろう。
俺はどうだろう。ダメだね。
俺はこういう人生を勝ち取った人を知ってる。
その人は64歳。来年から年金を貰う団塊の世代の男性だ。
その人との出会いは三年前。弟さんの葬式を俺が勤めたことで出会った。
火葬場に送り、着替えを済ませ式場の控え室から出たところに小さなロビーがある。そこの喫煙スペースで親戚から離れ、一人タバコを吹かして遠くを見つめてたのが喪主を務めたその人だった。
俺は何故だか握手をした。何かリンクする気配があったんだろう。その人はタバコを置き、生涯忘れないであろう、とびきりの笑顔で握手を返してくれた。手は温かった。しかし握り返す力は頼りなかった。
別に多くの言葉を交わした訳ではないが、何だか長い付き合いになりそうな予感を強く感じた。
次に会ったのは法事の時だった。亡くなった弟さんの文化住宅の一室で俺とその人と二人で務めた。
その人はいわゆる住居不定無職だ。
ここからは三年の月日をかけて少しずつ聞いたその人の歴史です。
個人情報の厳しい世の中ではあるが、書ける範囲で書きたいと思う。なぜか?
一人の人間が、近しい人の死に遇い、必死にもがきながらも遂に多くを学び、これまでの人生から大きく世界を転換させた様子を目の前で見た時の感動を仲間に聞いて欲しかった。もし縁あってこの文章を見た友人の助けになればと思う。
僕や君の隣に今いる愛しい人とは必ず別れていかなければないもんね。その慟哭の痛みは最大級の未来の種を秘めているってことを証明してくれたその人の話をしたかった。
その人と弟さんは北九州の海の上で育った。海の上というのは、父上が三菱の大きな船の船員だったからです。船の上で暮らし、そこから学校に通い、波にゆられ眠る。そんな幼少期を顔をシワクチャにしながら楽しそうに話された。
「船は絶えず揺れとるんですわ、バランス感覚が大事でね。弟はバランスが悪くてね、よう船の上で転んでましたんや(笑)転んでも転んでもワシの後ろを必死でついてくるですわ、いまでもその時の様子を思い出すと涙なんだか可笑しいんだかね、、(笑)」
海の上の冒険に満ちた幸せな日々は長く続かなかった。まもなく父は他界。一家は船を降り、四人の子供を連れ母上の実家へと身を寄せる。しかし、兄嫁に相当な気を使いながらの生活は母上の心身を消耗させ遂に実家を出ることに。
母上は病を押して仕事なら何でもやりながら一家を支えた。
しかしそんな生活がいつまでも続く訳もなく、間もなく母上が倒れる。末期の癌だったが満足な治療も出来ず、ただ死を待つのみ。その人17歳、弟さん15歳、二人の妹さん小学生の冬だった。
その人は学校を止め、すぐに職人の見習いに出る。弟さんも働くと言うたが、俺が働くからお前は卒業してくれと頼み込み、弟さんは了承した後、朝刊の新聞配達に出るようになる。
ある日、その人が仕事から帰ってくると弟さんがいない。置き手紙がある。

母上の担当医に聞いたのだろう。アルバイトで稼いだ僅かな金を持って夜行に飛び乗ったらしい。
しばらくして弟が帰って来た。手には新薬が。どうやって手に入れたか今だに良くわからない、と言われていた。とにかく情の厚い九州男児そのままという人柄であったのだろうと想像出来る。このエピソードは繰り返し繰り返し自慢そうに話してくれた。
このエピソードを聞くだけでも、眼前に生前の弟さんの姿が浮かぶようである。当時、九州小倉から東京上野まで夜行列車で相当掛かっただろうし、中学生一人で東京を歩き回り、紹介された医者を訪ね、僅かな金で新薬を貰うなんて大変な勇気と覇気だ。遺影を見ながらその時の様子に想いを馳せる。
一家の想いも虚しく間もなく母上は他界してしまう。親戚に葬儀を出してもらい、その人は弟さんと共に職人の道へ。妹さん二人は別々の親戚の家に預けられた。ここから人生が大きく回転し始める。
やがて空前の好景気、である。
大阪では万博。
九州より大阪の方が儲かる、ということで日本中の職人が大阪釜が崎を目指した。もちろん兄弟も思い出と悲しみが染み込んだ北九州を後にして大阪に出て来た。
働きに働き、妹さんを預ってくれた親戚にも仕送りし、貯金も出来、職人として兄弟で独立し会社を立ち上げた。兄弟は同じ日に結婚式を挙げ、その人には女の子の父親になった。子供のなかった弟さんは我が子のように可愛がったようだ。
流転の日々から思えば夢のような幸せが永遠に続くかと思われた。しかしバブルが弾け、資材の高騰。会社の業績は一気に下降し始める。多額の借金を抱え会社は瞬く間に倒産。ありとあらゆる資産を売却し、何とか世間様に迷惑掛けることはなかったが、兄弟家族は着の身着のまま家を追い出されることになる。
その人はツテを頼り、ある重機の会社へ就職。すぐに弟さんも同じ会社で働くようになる。またゼロから出発だが弟が一緒だから不安はなかったと振り返りつつ。
しかし弟さんの奥さんが亡くなってから酒量が増え、会社を無断欠勤することも多々あり、遂に解雇されることに。しかも酒やギャンブルでの借金を抱えていることが分かる。仕事のない弟さんの為に、その人は家族を説得して代わりに借金を返し始める。しかし困窮してゆく家計と比例するように家族との距離も離れてしまい、遂に離婚へ。
しばらくは会社へも歯を食い縛り行っていたものの、ふいに立ち寄ったパチンコにのめり込み、やがてその人も多額の借金を抱えるようになる。そして兄弟共に自己破産。
お兄さんは、こうなったのは全てお前のせいや、と弟さんに全ての責任を押し付け絶縁して失踪される。
次に兄弟が出会ったのが三年前、病室であった。
弟さんは既に余命三ヶ月の末期癌であった。
二人三脚で激動の昭和、平成を歩んで来た兄弟が再会するまでの間、その人はとても書けない日々を送られた。
「一度タガが外れた人間は何でもやる。ひとりぼっちは一番あかん。ほんまにひとりぼっちの奴は知恵を使って何とか生きようとする、これはええんですわ。一番怖いのはね、ほんまはひとりぼっちじゃないのに、帰る場所がない言うてヒネてる奴ですわ。これは知恵を使わんから力ずくで奪うようになる。繰り返しとると痛くも痒くもなくなるんですわ」
連絡を取り続けていたひとりの妹さんから連絡が入る。

絶縁したあと、一方的に弟さんを責めたことを悔いなかった日はなかったと。明日は謝りに行こう、明日はは頭下げに行こうと思いながら鉛のような過去を引きずって歩いていたと。
気が付けば目の前に人工肛門になり、口から食べることも出来ず、全身に管を付けられた瀕死の弟が病院のベッドに力なく横たわっている。
なぜ、もっと早く頭を下げれなかったか!なぜ、何が何でもやり直そうとしなかったのか!全てが遅い、全てが間違い!
と随分と自身を責められたようだった。
幸いまだ会話は出来た。
その人は申し訳なさそうにベッドに近付く。最初に声を掛けてくれたのは弟さんだった。
「兄ちゃんすまん、こんなんで。俺が悪かった、俺が悪かった、すまんかった」
その人は何度もこの時の様子を俺に言うてくれた。
「救われた」
次の日から付きっきりで病院に寝泊まりして看病し始めた。
ある夜、病床の弟さんがボソっと話した。「お互い家族持って、前のようには行かんようになって疎遠になったけど、こうやっとるとガキの頃思い出すな」
兄弟常に二人で寄り添うように生きて来て、離れた時はと思い込もうと生きていたつもりやったけど、最後の時にはまた二人だけで寄り添って過ごせた。短い時間だったけど想像出来んくらい濃厚で幸せな時間だったと誇らし気に話される姿に俺も救われた気持ちになったもんだ。
そして、通夜で俺は弟さんご遺体と、お兄さんに出逢う。
昨今、暴力団を社会的に抹殺しようという条例が蔓延っている。
府警は風営法による暴君まがいのclub潰しに躍起になってる。
そこに垣間見える一方的な価値の押し付け。これが民意だと鼻息荒く傍若無人の振る舞い。目に余る。
息が詰まる思いである。そういう風潮に嫌気がさしているから敢えて言うが、この兄弟は極道である。俺はど真ん中の凡夫だから色眼鏡で見る。だから一言で暴力団追放と聞けば反対はしないだろう。だけど彼らの生き方もまたそれぞれである。その一端を、俺はこの兄弟に学ぶ必要があった。自分がどんな人間であるかを全て暴いて貰う為にも。
-----—-葬儀式場関係者から「今夜の方は故人様、喪主様共にソチラ方面の方なので無理に御法話して失礼があってはコチラとしてもモゴモゴ、、、」
要するに当たり障りないように型通りの式にしてくれ、ということであるが、さてどうしたものか、、丸く収まるようにしようか、本当に悔いが残らないか、など控え室で考えたが、一端会場に入ると関係ない。坊主の端くれとして伝えるべきことは伝えなきゃ。
そうやって互いに信頼が生まれさせることが価値あることだから沈黙するべきではない。
以来、その人は折りに触れ電話をくれ、明日来てくれますか?と言うてくれる。
普通は命日やけど、その人は違う。たぶん自分の感性に正直に生きてるんだろう。
急に想いが溢れてくる、という感じだろうと思う。とても素敵なことである。
会う度に仲良くなった。
だいたい普通に四時間はおる。一緒にミヤネ屋見ながら政治の話をしたり、飲み物がなくなったらコーヒーを買いに一緒にコンビニにいく、単純に気が合うのだろう。というかこの人の魅力だな。そうこうしてるとその人の彼女が来る。ごはん食べる?と二十代そこらの女の子に言われ恥じらいながらそろそろ帰りますと言う。
しかしこれはようやく最近のことである。その人がここまで生活を取り戻すのには二年掛かったと思う。
弟さんが亡くなった頃、その人は多分ホームレスに近い状況だったはずである。極道はみんな食えるというのは間違いで贅沢出きるのは一部みたいだ。
とにかくその人は食うためには全てやったと言われてた通りの日暮しの中で弟さんの死に逢われた。
それからその人がどういう人生を勝ち取られたか、長くなったが、それを最後に話したい。
ある時、確か、四十九日が終わって間もなくの頃だったか、電話が入った。
「引っ越すことになりました。そう弟の家から。引っ越し先で仏壇買おうと思うてるから来てくれますか」
と。
その人は弟さんが残した家に弟さんに代わり住んでいた。遺品を整理しつつ。
弟さんが残していた金品を生活に回していた。俺は心配だったよ。だって、それっていつか絶えるじゃん。そしたらまた悪い道に戻るんじゃないかと思って。だってほんまに根が素晴らしく綺麗やから、環境が大きく左右すると思ってたし、俺も我ながら必死で、このタイミングで弟さんの死期に立ち会ったこと、見送ったことには意味があります、言うてなんとかならんかといつも考えてたからホンマに心配だった。
その人から引っ越しが決まったと聞いてほんまに嬉しかったんです。
翌日行ったよ。
新築のメゾネットタイプの綺麗で可愛い部屋。
彼女さんと一緒に探したらしい。
二人でお参りした。
歓談中に蚊に刺された。
良く部屋を見ると数匹の蚊が優雅に飛び回っている。
「あ、蚊に刺されました?(笑)実はね殺せんのです。
これもあれも弟の生まれ変わりじゃないかと思うとね(笑)人様に迷惑ばかり掛けて来たワシがまさかこんな想いになるなんてね(笑)今は蚊と一緒に暮らしてるんですわ(笑)」
さらに、弟さんの通夜に来ていた堅気時代のかつての会社の同僚が独立してて、落ち着いたら働きにおいでと誘ってくれたようで、堅気の仕事にも就けたと喜んでおられた。 今手元にある暮らしは全部弟がくれたものや、とお陰様の人生を選び取ってくださった。
はじめはガランとした部屋も、伺う度にテレビが増え、家具が揃い、ニトリで買ったベッドが最高やで、と疲れたら眠りにおいで言うて合鍵を渡そうとされるくらいの人柄。とにかく行く度に充実して行く部屋と比例するように、その人も溌剌としていく様に俺は凄い興奮した。
-------------------------------そして3.11 東日本大地震--------------------—
或る日電話が鳴った。
「明日来てもらう予定やったけど、わし、福島のアノ原発の仕事行って来よう思うてね。弟に恩返ししようと思ってももう死んどるから、せめて何か出来んか思うてね。そんなんでしばらく留守にするからまた帰って来たら連絡するから頼みます」
その人、こんな格好良いこと言うてね。
言うとくけど、この人、世間がゴキブリのように抹殺しようとすてる極道です。
この人は一つの死に遇い、人生を大きく転換した。俺はこの人と出会うことによって善悪の境から解放された。
一つの死に遇い、無数の命を守ることが、その死に報いる俺の道だと確信されたこの人の今歩まれてる道こそ「極道」でしょう。
この人と接することで学んだことは多い。これからも学ぶだろう。
俺が焦れるその人は、無事に原発から帰って来たよ◎
そしてまた雪が落ち着く頃、東北に向かわれます。
弟さんがずっと生き続けているんだな。
俺はどうかな?この人と接し続ける限り、俺も問い続けると思う。
花びらが散っても花は死なない。人は滅しても想う人あれば人は死なない。
(金子大栄)
俺がたまらん気持になるその人の話、したかったんです。
ありがとう、こんな長いの読んでくれて。夜更かししてしまった。明日もがんばりましょう。