世襲、FUNKY MONKEY BABYS「一部訂正版」 | ha-gakure

世襲、FUNKY MONKEY BABYS「一部訂正版」

2012.11.29


FUNKY MONKEY BABYSの真ん中の人が実家の寺を継ぐことになり、解散を決めたようだ。

世襲にNO!と政治の世界では良く言われる。

短絡的にただNOと言うのは如何なものか。
良し悪しはあると思うな。すべては先代が規範となる信条を子に伝えているかどうかによるだろう。

「お布施は幾らですか」

こう言われることがある。

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石器時代、貧富の格差はなかった。

腹が減れば誰かが狩りをし、病める者、力なき者を養った。

冷蔵庫はない。よって無益な殺生もなければ搾取する者もなかった。

ただ食い、排泄し、寝て、子を育てた。

やや乱暴であるが、言うなればストレスという負荷もなければ哲学、思想も不要であったろう。

必要だったのは唯一生き残る知恵と健康であった。

常に死のリスクを身近に感じながらの貧困なきコミュニティだったであろう。

——————————-人類は氷河期を越え、西暦の入り口に立つ——————

世界に王が立ちはだかり、明確な格差が誕生する。

世界人口の1割程度が搾取し、残りの9割の人々は貧困にあえいだ。

富める者は、その財を与えず、権力、法律によって罰を与え、貧なる者は、更に貧なる者を差別し、搾取してゆく。

石器時代は日常の中に敵がいた。
狩りは命を繋ぐ為の仕事であると同時に死の危険と隣り合わせである。
逆に食われるという危険が常にあった。

その中にあっては、人間は助け合い、支え合っていかなければ自身の命の保証はない。

しかし、稲作の始まりと共に、人類の自給率は飛躍的に上がった。

肉と違い保存も出来るから貯蓄出来るようになった。
農作物を育てる土地という固定資産という発明は、人間同士を敵、味方、に分けることを助長し、その規模が大きくなるにつれ、地主を頂点としてあからさまな格差ピラミッドが構築されていった。

その泥のような社会構造の中からキリスト、モハメッド、釈尊など宗教的指導者が次々と現れた。

彼らは、『富める者は与えよ、徳を積め』という「布施」という互助システムを広めることで、過酷な格差の底辺で、殺し合い、奪い合い、嘘をつき合わなければ生命を維持できない人々を救おうとしたのではないだろうか。

それは、言葉ではなく、思想でも、哲学でもなく、発想と実践に他ならない。

彼らはやむにやまれず「布施」を発明した、そんな気がする。

富める者が、虫の息で動くことも出来ない人間を前にしても、「運の悪い奴、他人のことは知らない」と『与える』という発想もなく、意識もない、そんな時代の中に、彼らは布施の交換条件として「徳」という利益を提示した。

その後、施政者にとって徳が大切なキーワードになってゆく。
政治に「徳」が利用されるようになって以降、「布施」という本来の貧困互助システムは消滅したが。。

—————そんな布施————–

「幾ら払えばええですか」

原始仏教の精神に戻り答えるなら、絶対こうだろ?

「はい、値段はありません。僕は明日の米がありますので、布施をするなら釜が崎で明日のパンがない人々にあげるかユニセフに寄付して下さい」

と、こう伝えるべきものです。

申し訳ない、俺は出来ない。

出来ない、出来ないが、こういう事を忘れてはいけない。
せめて、そういう想いで人間を生きていく。

———さて、冒頭で話した世襲と布施の関係である————-

俺は世襲しています。

世襲のお陰で今がある。
FUNKY MONKEY BABYSの真ん中の人が実家の寺を継ぐことになり、解散を決めた。
彼もまた世襲である。

政治の世界にも多い。
とかく、世襲には批判も多い。その最大の理由は、
利権の世襲というコトであろうが、キモチ的には、

「おぼっちゃまに何ができる」

という不信だろう。

これは絶対的に正しい。
明らかにそうである。

俺は、世襲が嫌だと思いながら、思春期を送り、大人になった。仏教を学びながらも、いつも、自分に合う仕事はないか模索していた。
その反動の音楽であった。

まるで保険のように仏教を学び、薄っぺらい知識のみ備え、現在の仏教を批判し、毒を吐き散らした。

保険がある人生に於いては全てが中途半端になるのは必然である。

過疎地の寺に帰っても仕事はないので、何の覚悟もないまま、アルバイト感覚で、二つの寺を渡り歩いた。

言われるがままの仕事をこなし、失敗しない人生こそが俺の生きる目的になった。

—————-体裁と世間体。肝心な本人は空洞化—————-

これは、世襲の一番ダメなバージョンである。

このままで生活出来ていたら俺は最悪の人間になっていただろうと思う。

しかし、有り難いことに、俺の生活は緩やかに破綻していった。

ある日、免許取り消しになりクビ同然で社会の荒波に放り出された。

その間、貧困にあえぎ、初めてha-gakureも二年休止し非常に色々あったが、今、遣り甲斐を持って何とか自分の足で立たせて貰っている。ようやくha-gakureも出来るようになった。
縁とは不思議なものだ。もし帰る実家に仕事があれば何一つ学ぶことなく、何も変わることもなくただ僧籍を持っているだけの坊主になっていたであろう。

そんな今の自分を支えているのは或るひとつの風景である。

それは俺が中学生だった頃だった。
こたつに入りテレビを観ていた。

母がこたつで、お布施を手にしながら、

「あれ?入ってない」と呟いた。

俺は「どうするん?入ってなかった言うて電話せんでもええん?」

と言うと、母はしばらく沈黙した後、

「あんた、ええか?お布施 というんは金額じゃないんよ。気持ちなんじゃから、お婆さんは入れたつもりなんじゃけぇ、それでええんよ。電話なんかせん。これでええんよ」

それが今の自分の重要な部分を形作っている。

俺が世襲じゃなかったら出会えてない言葉かもしれない。

親が、伝えるべき確かな理念を持って仕事をしている限り、マニュアル化できない純粋な精神というのは、知らず知らず子に継承される。
母も父もそのような意識はないかもしれない。しかし子供にはそれを感じとる敏感すぎる感受性が備わっている。

本当に子は親の背中を観て育つ。

或る会社の社員教育を取材した番組で、割り箸を横に咥え、笑顔の練習をさせている映像を観たが、これは何だろう。

その笑顔に何の意味があるのか知らないが、このような「笑顔」で会社ブランドの世間体と体裁を繕うことで、会社の利益が得られると「信じられてしまう意識」と、「信じさせてしまうこの社会」というのは格差以上に異常な社会じゃなと思ってしまう。

———–人類は緩やかに終了しようとしているのか、それは誰かの意思なのか————-

昨今、ネットでは、葬儀一律○○円、地域最安値、法要一律○○円、など、何でもかんでも明瞭会計は世間が求めていることかもしれないけど、違和感は残ります。

今、都市部では核家族化が進み、故郷に代々の寺はあるけど、遠くから来てもらうのも。。という理由からネットで坊さんを探す人が増えています。
「葬儀、僧侶」と検索したら色々と出て来ます。

身近に「それは変だよ」と教えてくれる人がいる事はとても素晴らしいことです。
実は先ほどまで、自分の狭い見識で「単立寺院」の一側面しか知らないにも関わらず、それは良くない事だと書いておったのですが、或る親友が丁寧に別の一面を知らせてくれました。
ですから一部訂正してお伝えしております。

身近に「客観的視点」を与えてくれる友に出会ったことは自分の宝です。
変わるなら先ず自分から、これをモットーにしておりますのに全く以て恥ずかしい限りです。
友よ、恥ずかしい自分に気づかせてくれてありがとう。本当に。

個人的には、守るべき歴史、そして、親から引き継ぐべき理念を知るならば世襲の政治も悪くないと思っています。