せめて「いただきます」と | ha-gakure

せめて「いただきます」と

2013.01.26


VOのヤスです。Facebookのha-gakureページに掲載したものに手を加え投稿します。

複数の人生が交差するバンドが継続する為には智慧と工夫が必要ですね。
曲のアレンジ等は自己主張の掛け合いで良いものが完成するのですが、解散か継続か休止か脱退か、という局面では察することが大事だと思います。

永遠はないので必ずいつか終わりが来ます。
だけど智慧と工夫が尽きるまでは続けて行きたいと思います。

もし、あのままやめていたら今の環境は無い訳です。
それは、「あの時、死んでいたら今のこの出会いも、暮らしもなかった」と同じですね。
一方で「形にならなかったもう一つの未来」を『失った』訳です。

誰かが何処かで愛する人と別れ、この世を去ります。
そこで「縁」は尽きますが、形を変えて「縁」は続いて行きます。

「彼が死んでくれたお陰で、彼が生きて食べ続けるであろう食事が、地球上の何処かの食卓に並び、地球上のどこかの生き物が食事にありつく事が出来ます。

この世に生を受けた以上、滅せぬ「命」はないけれど、「縁」は尽きません。
「縁」と命は別々なのです。

よって無縁社会など存在しないのです。
「縁」とはそういうものです。

僕らの意図しない、全く明後日の方向で「愛おしい人の死」は「誰かを」生かしております。

だから僕は思います。人は死なないのです。「縁」となって繋がって行きます。少なくとも想う人があれば。

死、そのものは行為です。無意識の布施行為です。
敢然たる煌々と輝く利他行です。

ha-gakureの宣伝とかする場所なのにこんな事書いて変ですね。

SNSの超発達で、一体何処に書けば良いのか見失って来ました。
mixiは自由度高く良いのですが、もうやめてしまった人も多く。。

Facebookは暗黙のルールとして「重いのはちょっと」(僕が想うだけですよ)という感じがあって、このような事を書くのは躊躇います。

また昔の同級生など、人生観も違えばカルチャーに対する感度も違う、同じ山の空気を吸った同級生仲間も共存するFacebookの中で音楽の話を書くと「お前そんな余裕あってええな」または「まだそんなことやってんの」という事もやんわり言われる訳で、まったくもって時の経過「時空の断絶」を身しみる事態になる訳です。

僕には伝えてみたい事があります。
一方通行だったらすみません。何か分かち合うものがあると信じて書いています。
コメントを受け付けないのは自由に感じ取って欲しいからです。
コメントいただいたら、つい余計なことを言うてしまうので自由に受け取ってもらえたら、と思い此の形式にしています。

また、誹謗中傷があった場合、耐えられない性格なので、形式的には一方通行ですが安心して思い切って書けます。お許しを。

————————————————————————
さて、死ぬことは誰かを生かすこと、という所まで話しました。

さて、これが今日のテーマですが、僕が今、こうやってha-gakureのページに想う事ガリガリ書いているのは、やめなかったからであります。

辞めてたら、このような環境はありません。

だけど、ここを言いたい訳です。
「続けろ」「あきらめるな」「生きてるって素晴らしい」という妄信的な讃歌はなんだかとってもリアリティーがありません。

そういうCMのキャッチコピーも歌も耳に入ってくると「本気か」とヘナヘナドキドキします。

ha-gakureが休止したまま、メンバーとも徐々に音信もなくなってて、互いに違うフィールドで活動してたり、暮らしで必死で、でも僕の結婚式に参加してくれて、久々に会って

「お、、おお。久しぶり、、元気やった?」

みたいな会話しつつ、式終わりで携帯に電話あって、指定の飲み屋行ってみたらメンバーだけが飲んでて、「おめでとう」って言われて、思い切って

「すまん、もう一回一緒にやって下さい」って言わんかったら今はない訳ですが、そのまま解散という事もあった訳です。

———————幸か不幸か———————-

そのね、解散した場合は「不幸」か?という事です。

いえ違います。きっと違うでしょう。

きっとそれはそれで「得られた世界」があるはずだから。
本当はどこにも「不幸」はないのじゃないでしょうか。

だからといって「あきらめ」を勧める訳ではありません。
「明らかに観れるまで」がんばらなきゃアキラメできません。

世の中は俯瞰してみれば完全にフェアです。それが僕を支えています。
一面だけ観れば格差があります。そんな世界の見方してたら僕はとても立ってられません。

——————あの事件について————–
日揮さんの社員さんが10名犠牲になられました。

記者会見で役員、社長さんでしょうか、が会見されておられました。

『亡くなった方々に哀悼の意を捧げつつ、生存された方々の智慧と工夫、勇気、決断力を誇りに想う』と言われておりました。

この社長はきっと人格者ですばらしく暖かい人だと思います。全身で哀しんでおられました。良い会社です。

ただ、僕には少し悲しかった。というより、少しだけ違和感を感じた。

————僕が遺族だったらどうしても「比べてしまう」。。。。。。。。。。。。

『生存こそ賞賛に値する』とも聞こえかねない会見であった。

亡くなられた10名の方々、あなた方が明日、そして明後日、10年間、または20年間食べるはずだった膨大な食事は、地球上の何処か、それは僕かあなたか、それともアルジェリアの人々か、もしかしたらその一回の食事がテロリストに入隊しようとする少年を引き止める食事となるかもしれない、彼ら10名の死は見知らぬ誰かを飢えから救います。確実に。それは煌々と煌めく利他行に他なりません。

生存している我々は、目の前にある食事が「あなたが食べるはずだった食事」だと思って美味しくいただきます。

あなたの死は私たちの生です。あなたたちの生きたかった明日をいただくのです。
だから「いただきます」と手を合わします。

————–ちなみに——————–
せめて
彼らの葬儀は国葬で税金で出してあげて欲しく思います。

日本人は欧米列強相手に5年も戦い抜いた、という事で同じ有色人種のイスラム社会では非常に尊敬されていました。

しかし、アメリカの作戦に引きずられ、イラクの治安維持に参加し、またグローバリゼーションの波に乗り、多国籍企業にも参加してきました。

グローバリゼーションの明と暗がはっきり出た今回のテロのように感じました。

何がジハードなんでしょうか。
組織には白人も、また日本人も参加しているとの情報もあります。

根っ子は貧困と格差でしょう。

貧困も度が過ぎると他者への殺意に変わります。
特に富めるものへの。

目的はマリへのフランス参戦阻止の取引と言われていますが、先ず、なぜ、このような先鋭化した思想の組織に続々とイスラム圏以外からも入隊者があるのか。
根本的な問題はそこです。

ここまで格差を広げ、富を分配することもないグローバリゼーションという稼ぎ方。

日本国が今後もスタンスを変えず、アメリカに引き回され、自衛隊を外に出すなら、それも良いでしょう。僕らが選んだ政治なんです。
しかし彼ら10名は僕らの先駆けとして亡くなられたという事を忘れてはいけません。
そして、このままで良いのか考えてみるべきです。

だって完全に戦死じゃないですか。
実際、国の方針によって日本人はアメリカと同列に敵視して観られている訳です。それまでは尊敬すらされていたのです。

これは戦死なのです。運が悪かったでは済まされません。

僕は最初このニュースを聞いた時、「あぁ日本人はイスラムでは嫌われてないし、尊敬もされているから彼らは解放されるだろう。白人は厳しいかもしれない」と思っていました。

無知な僕がこれ以上書いても感情論になるだけなのでもう止めましょう。

今夜の食事は手を合わせ「いただきます」