原点回帰
2007.08.6
暑い一日やったな。
今日から盆でなかなかバタバタしたけど、この時期が一番質問が多い。
「いつ頃帰ってくるんかいのう」
この質問は非常にデリケートやからな順序良く話さないと傷つけてしまう。
みんなはどう思う?
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俺は黒髪、黒い目、白い飯、箸、座布団、番茶、日本語、仏教、
そして神社も、深い森も、瀬戸内海も、そして唯一の被爆国で、
広島に生まれ落ちたことを誇りに思ってる。
海の向こうを羨ましそうに見つめていた時もあるけどね。
その中でも仏教に沢山の影響を受けたから盆の事も多少わかります笑
読んでもらえるか分からんけど、思うところ書いてみます。
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日本の仏教は枝分かれし過ぎて迷うからルーツ仏教に行きます。
釈尊(仏陀)は発明とか啓示とか、超能力とかではなく、地球に埋まっていた法則に気付いた人なんよな。
人間ってね、時間の経過と共に老いて、病んで、死ぬじゃろ。
なのに、それを分かっててどんどん生まれてくるじゃろ。
そんでな、なんでなん??
ってめっちゃ考えて考えて、世間が効くっていうことは全部試して(苦行とか)ほんでも全然報われない、要するに『生、老、病、死』(ショウ、ロウ、ビョー、シ)の四苦から解放されないってガッカリ凹んじゃうんよ。
心の中の途方もなく真っ暗な空洞を空っ風がピューピュー鳴っては消えてゆくんよ。
空しいのよ、とにかく空しくて、何やっても嬉しくないの。
だからその空洞に刺激を与えて空しさを麻痺させようというのが当時の一般的な方法で、例えば真っ赤に燃える炭の上に寝転ぶとか、蟻に全身を噛ませるとか、一年中逆立ちしてるとか、入れ墨を目一杯入れるとか。
勿論、天然のドラッグも使用した。
でも、それらは一時的なトランス状態に肉体を依存させるだけで、時の経過と共に冷めてくるじゃろ。その後がもっと空しくなるから、どんどん過激になっていくんよ。
その循環から真に解放される為には一体どうしたらええんじゃろ。。。
そんで釈尊が至ったのは(途方もない自己対話の時を経て)、
因果という法則で、それは簡単に言うと生まれたから死ぬんじゃん、ってことだけど、釈尊はむしろ、死ぬから生きていれるんじゃんという発想に飛躍して、だからその発想が、
『今をいかに生きるか』
という仏教最大のテーマになったのです。
釈尊の時代、彼は葬式をしなかったよ。
理由は、この世界こそが苦しみの種尽きぬ地獄であるから。
死はパーフェクトなる解放だととらえていたから。
だから当然、法事もないし、弔うことも、鎮めることも、そしてお盆とか、先祖供養もなかった。
手を合わせる対象は全て現世における自分の今と、生かしてくれている宇宙へ向かっていたんよ、凄いよ!興奮してきたよ!
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だから盆は存在しなかった。
更に仏さんも存在してないからね。
仏は(仏像)は釈尊死後、仏教徒はインドでえらい嫌われてね、
それは平等思想だから王様にとっては迷惑なんよね。
釈尊の生前の頃はまだ権力者も手を出さなかったけど、有力な弟子がどんどん亡くなっていって、そして迫害されたのよ。
追われた仏教徒はどんどん北上して、今のキルギス(バーミヤン遺跡、これはタリバンに破壊されたけど)に辿り着いた時、
「お前等ヘトヘトやん大丈夫?」
ってキルギスの人々。
「うん。。」
「どうしたん?」
「あのね、僕らね、インドでお釈迦様が大好きで、良い教えだから誰かに伝えたかったんやけどね、インドの王様に嫌われて、そんでここまで逃げてきたの」
「そんなに素敵な人なんか?」
「うん」
「じゃあ、どんな人か教えて。俺らキルギスに住む者は石を掘って形を作るのが得意だからお釈迦様とやらの人形を作ってあげるよ」
これが仏像の始まりなんです。
釈尊は、
「僕の考え方は僕が死んだらきっと誤解を招くから文字には残さないよ。一世一代限りのことだからね」
文字不立(もんじふりゅう)という事だったけど、結果、現代に至るまで残っているけど、一体どこまでが純粋な仏陀の言葉なんだろう。
お盆、コレはサンスクリット語です。
日本のお盆の正式名称は『盂蘭盆』(うらぼん)と、バカボンみたいな響きですが、これが正式です。
コレはサンスクリット語が変化した言葉で、『ウランバーナ』が
変化したのが日本の『盂蘭盆』(うらぼん)です。
『ウランバーナ』とは「逆さ吊り」という意味です。
先祖供養とは全く関係なさそうやね。
これは昔のインドで、お母さんをなくした息子が夏の盆の時期に
夢の中で、地獄の世界で逆さ吊りにされて苦しんでいるお母さんの夢を見て、その後、日々を悔い改めた、ってのがシルクロードを渡ってくる内に先祖が帰ってくる時期だから家族で墓参りしましょう。ということになってるルーツの話です。
仏陀は盆に対して何も言うてないです。
親鸞はそれを忠実に守った人で、だから信徒が増えなく死ぬまでマイノリティーだった。
うまくやった団体はやはり、先祖供養とか、霊魂とか、言い方悪いけど、人心の不安を上手く煽った所があります。
仏陀は霊魂について語っていません。
死後についても、
「君、そりゃ死んでみなきゃ分からんよ」
と言うた人です。
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現代、俺がお盆でお参りする意義はあると思ってる。
こういうこと、仏教に対する不信感や、誤解を解く機会にしてます。
人が人を裁くことも、人が人を救うことも健全ではない。
まして宗教が出る幕ではないと思っている。
宗教は成すべきは、嫌われても、ウザイと言われても、石を投げられようと、無宗教が流行しようと、耳の痛いことを言い続けることだと思う。
一休さんが正月で賑わう京都の市中を、杖の先に手製のドクロを
付けて闊歩した所に存在意義があると思う。
明日とも知らぬ日々の中で見て見ぬフリをしている俺です。
死んじゃうって思うと怖くて眠れません。
身近い人が死んじゃうってもう嫌。
でも、だからこそ今マジで生きようっていう発想に持って行きたいし、やっぱそれしかない、って思うのですよ。
お盆を機会にみんないつか地上からお別れするなぁ、うん、バリバリで生きたるわ、と一瞬でも思える機会になればと思うのです。
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明日とも知らぬ、、、
明日8月6日 8時15分は広島に原爆が落ちた日。
誰も死ぬなんて思ってなかっただろうな。
「もうそろそろ式典、いいんじゃない?」
っていう声が年々増えてるという。
俺もあの街で生まれて18年おったけど、やはり年々、確実に意識は薄くなっていたと思う。
大事なことは透明なんですね。