ヘイトスピーチ、表現の自由の限界 | ha-gakure

ヘイトスピーチ、表現の自由の限界

2013.05.27


「表現の自由」その後ろ盾がある日本人は幸せだ。
クリエイターだけの特権のように語られる「表現」など屁とも思わない。「息ることは表現だ」と信じて止まない僕は、呼吸それ自体が既にクリエイティブであり、生きてる全てがクリエイターだと信じている。
だからこそ好き勝手話せることは、好き勝手呼吸できることは人生を送る上で最低限人類が守るべき防波堤だと思っている。

ところが何か変だ。

人類の平和と叫べば極左扱いされ、理解できるはずさ、と歌えば売国と叩かれ、日本人だけの平和と他国を誹謗すれば愛国者と喝采を受けるこの偏狭な空気には辟易する。
この空気の中ではブッダの言葉はすべて極左、売国となる。

戦後、なんとか表現の自由は守られてるが、それを良いことに匿名架空空間で罵詈雑言をキーボードに叩きつけている人々が一部熱狂している。

東京、新大久保(在日の方が多く住む地域)ではネットで連携した自称愛国者の方々が「朝鮮人を叩き出せ」と聞くに絶えない低レベルなデモをやっている。
これは表現の自由の範疇ではない。これは自己規制の範疇である。それが出来ない大人が増えている象徴的な出来事だ。

このデモに対して、最近は「シバキ隊」という団体が作られ、彼らは彼らで偏ったやり方で差別デモ隊を威嚇しているようで、それに恐怖を感じた差別デモの中心人物の桜井某は日弁連に「人権侵害だ」として救済を求める始末。

なんだそれ。。。

「朝鮮人は出ていけ!殺せ」と言い放っておいて、矛先が自分に向いた途端、「人権侵害だ」「助けろ」と言われても頭おかしいんか?とあきれてしまう。

表現の自由、これは成熟した社会でこそ成立し得た人々の善意に支えられた憲法だ。

そこに自己責任と喜び、それに伴う連帯がない表現には必ず限界がある。

あの戦争を導き、国を破綻に導いたのは東條英機か?関東軍か?天皇か?
違う。違うのだ。
世論という匿名の化け物だ。

新大久保で「朝鮮人殺せ」と叫ぶ人々、それをニヤニヤ傍観する人々、匿名で自称愛国者を名乗る人々、「もっとやれ!」と書き込む顔なき人々。
それこそ日本を戦争に導いた名もなき世論という空気だ。

そこまでやりたいなら死ぬまで一人街頭に立ち続けた最後の右翼、赤尾敏を見習いなさい。彼には憂いと覚悟があった。
そこまでやればそれはそれで歴史的評価も受けるであろう。

匿名で群れてヘイトスピーチをやってる人々を見る度に同じ日本人として吐き気がするのは、あの戦争をしなければならない極限まで世論を追い込んだ匿名の人々らの幻影と重なるからだ。
いつまでも人々の寛容に甘えて右翼ごっこやってないで歴史に学び他者の為に働きなさい。

「ありがとう、お前のお陰で助かったよ」その一言が、彼らの日々を変えるだろう。
たった一人の在日一世の人と膝を突き合わせ彼らの話を聞いてみなさい。無知こそ悪である。言葉交わすだけで少しは心寄せる余地も見出だせるだろう。

誰の為にもならない、自己愛の末路、空虚な自己満を無責任、無慈悲に路上に撒き散らしたいなら一人カラオケにでも行って叫んでなさい。

みんな悪気なくても呼吸しながら二酸化炭素吐いて知らず知らず迷惑掛けてるの。
だからせめて言葉は誰かの為になるものでいたい。いずれ死ぬのだ。残された時間は数時間かもしれない。
せっかくの人生、ちょっとだけ美しくありたい。