私的余話「霊魂」の話 | ha-gakure

私的余話「霊魂」の話

2013.10.23


このHPが残っている間はここに命の言葉を吹き込み続けようと思ってます。
引き続きよろしくお願いします。

唐突やけど、人間はやはりストレスがあったり、悩みがあったり、堪え難い境遇に置かれたり、後悔したり、後ろ向きだったり、訳も無く哀しかったり、訳もわからず自分を傷つけたり、誰かを叩いてしまって哭いてみたり、愚痴ばっかりこぼしてみたり、誰かを憎んだり、誰かと比べて嫉妬してみたり、自分を愛せなかったり、愛すべき人を愛せなかったり、愛したけど苦しかったり、愛されたけど息が出来なくて逃げ出したり、とにかく逃げ出したくて仕方なかったり、そんな所に身を置いたことがある人間の方が俺はとっても好きだ。
その苦痛をやり過ごしてない人はみんな優しい。

ストレスはうつ病の始まり、とか、寿命を縮めるから追い出せ!追い出せ!って盛んに言うてますが、うつ病にならないような生き方、長生きするだけが人生の価値じゃないと思う人もいるはずです。

僕らは生は選べないけど死は選べるよね。
その気になれば人生を自分で終えられます。

僕は割合ね、田舎の育ちで呑気に生きてきましてね。弟が死ぬまで気がつかなかったね。「あぁそうか、自分で選べるんじゃなぁ」とね。
それからしばらく怖かったね。プラットホームで電車が入ってくるよね、そして思うよね「その気になれば飛び込んで終わりやな。その気にさえなれば」
ものすごくリアルにイメージしますよ。その後のこともね。

近いな〜、って思いました。死がね。暮らしに密着やな、とね。

たまに夢を見ます。この地上には存在しない弟の夢。
もう随分時が経ったけど、たまに見ます。

正直見た朝はやはり淋しいね。これだけ時が経ってるのにね、超えられてないんだなぁって思い知らされるね。
下手したら一生こうなんかもね。超えられるなんてね、傲慢かもね。

受け入れる、簡単に言うけど簡単じゃないね。ココロの深い所ではずっとぐるぐるしてるね。だけどそうやってみんな自分を叱咤激励してね。
何度も何度も同じ所で転んでね、でもね、その姿が尊いって思う。誰かのその姿に僕は力を貰うから。

だからね、こういう逃げようのないストレスとかね、根源的な悲しさやら淋しさってね、追い出さずにちゃんと持ってる人って知らず知らず誰かに勇気やらインスピレーションを与えてるんだろうなぁって感動すらします。

——————————–この世の始中終、まぼろしの如くなる一期なり、、かぁ———————————–

僧侶の端くれとしての永遠の悩みはね「魂」だね。
正確には「どう伝えれば良いか」ですね。

みんなはどう思う?あるのか、ないのか、ね。

「死んだら魂はどこに?うちの旦那、今頃どこらへんにおりますか?」

———-あのへん———このへん———極楽—天国—-地獄—–浄土—彼岸——–

この質問、この問いは自分の問いでもあり。

マニアックな話になりますが、興味の或る方だけでも読んでもらえれば幸いです。

僕はね人類が『空』(くう)という感覚を基本に置いた生活だったりコミニケーションとか、仕事のやり方、家族との関わり方が出来れば極めて楽、略して「生きながらに極楽」と思ってる。

自分の生活にピンチ的な問題が発生したらなるべく「空」を軸にその事象を観察、打開策を見いだそうと役に立ってます。
だけど、これは本当に理想であって、どう考えても実践に至ってなくて多くの方に迷惑ばかり掛けてます。ha-gakure解散の事もそうです。

現状の宗教の多くが「霊魂」を肯定、もしくは「論じない」という立場にあります。

「うちの旦那の魂は今どこですか?」

その問いに対し、

「今、三途の川を無事に渡るところですわ」

と言い切ってあげるのも優しさ、なのかもしれないし、質問者も納得する場合が多いのは確かです。実体験として。

だけどどうだろう。

「じゃあ証明して」と言われたら証明できるものだろうか。俺には何も見えない。

実体のないものに「言葉」を添えて、それを「言霊」と称し相手を納得させるのはいささか傲慢過ぎやしないだろうか。

本来、ブッダの説いた仏教は実体のないものに「言葉」を乗せることを拒否し、ありのままを観ることから始まったはず。
だから今、生き方を模索する多くの若い人が原始仏教に惹かれているのだろうな、と思う。

ええ?!これが仏教なの??とゲンナリされるかもしれんけど、覚えておいて下さい。
仏教の始まりの人、ブッダは、

『この肉体とは別個に不滅な一つの「魂」なるものが存在するという説は完全に捨て去られた』のです。

では人は、生きとし生けるものの命は死んだらそれで終わりか?
そんな虚しいものか?この人生は一体何なんだ?何の為に生きているんだ?
生まれ変わって再チャレンジできるんじゃないのか?法事っなんだ?供養って何だ?死んだら無か?真っ暗か?ゼロか?ゼロさえないのか?一体何なんだ!

そう闇の海に放り出されたような気持ちになりますね。
僕もそうなんです。未だね。こんな我々を放ったらかしにして更にブッダはこう言い放ちます。

『この世界に存在する全て、如何なる命にも固定的にして、永遠なる実体は存在しない』

肉体の死の後、さまよう魂というものは「ない」と言い切ったわけです。
ブッダはブレないのですね。

「あった」「さっきまであった」「確かにあった」けど、「今はない」「もうない」「どういうこと?」という変化にさらされる僕らは耐えなきゃいけない。
その耐え方の一つに「魂になって見守っておられますよ」と希望を抱かせる方法というか、言い方もあるのだろうが、俺はね、これは言う勇気ない。
それは怖い。自信の無さがきっと顔に出るから。返って不安にさせてしまう。

こんな時、ブッダはこう言います。

「空だから大丈夫だよ。何も恐れることはない。空だもの」

腹が据わる感じないですか?もう逃げ場がない、って感じの。
むしろ気合いが入るというか、透明な気持ちになって、むしろ「近く」にいるような。
それは魂という形態をとって「霊」という「実体」として「近い」のではなく、この世界のありとあらゆる空間に「散り」「解放され」「放散し」「拡散し」「どこにも居ないのにどこにでも居るような」とってもココロ強い感覚。
この感覚が「空」だと思います。

ある詩人のドキュメントの話です。
加島さんという90歳のおじいさん詩人のドキュメンタリーでした。

「空」にまつわる印象的なシーンがありました。

お爺さんは晩年に出会った同年代のドイツ人女性と恋に落ちます。

長野の自然の中、とても幸せな結婚生活でした。
しかし伴侶に先立たれます。

悲嘆に暮れ、遺骨を土に還すことも出来ずにいましたが、彼女と過ごした日々が支えとなりやがて立ち直ってゆかれます。
「死んだ人は残った人を良き方向へ導くなぁ」と言われつつ、死後三年目に納骨する訳ですが、先祖代々の墓じゃなく、庭にばらまかれてました。
まるで肥料のように、白い骨がパラパラと拡散してました。本当に驚くほど無造作に。はからいもなく、本当に無垢な散り方でした。

その感覚。

これが「空」だなぁって印象に残ったわけです。
自分の愛する人の骨を庭に蒔けますか?本当にね、肥料のようにね、ざっくばらんに蒔いてありました。

姜尚中さんが出演されておられたんですが、あの優しそうな姜さんもちょっと引いてましたね。
すぐに「こういう方法も素敵ですね」と優しく言われておられましたが、僕も「え?大丈夫?」と目を疑いますね、きっと。だけど姜尚中さんもそうでしたが、その後、とてつもない感動が沸き上がって来ますね。

このお爺さん、凄いって思いました単純に。生命体として行くべき所に行かれた人だな、って思いました。確か加島祥造さんという詩人さんです。

このお爺さん、めちゃくちゃ生命体らしく生きてるな〜って思ったんです。

死後の世界を語ったり、来世の幸せを願ったりする「ある」前提の僕等の生き方って「もうすでに今を見てないもんね。どこか上の空だね」何だかね、まさにこの世の『囚人』っぽくて息苦しいかった。
「ない」って生き方、透き通ってて単純に綺麗だなぁって思った。そしてシンプルだね。すごく近くに「今」がある感じがする。

どうせ生きるならね、そこを目指し。そう思い、書いてみた次第です。

そして思う。

面影は死なない。僕が生きてる限りずっとそれは生き続ける。