ON THE 恩
2012.11.15
時事ネタから少し。
カープの東出選手は「恩」を理由にカープに残ることを選択した。
こんな今だからこそ「恩」って言葉新鮮に響くね。どこかノスタルジックでさえあります。
大阪市長の橋下氏は故郷「広島」で「(核兵器廃絶は)理想だが現実は無理。日本は米国の核の傘に入る必要がある」と。
時代は変わった。
今では日本人の多くが「そりゃそうだ。こんな御時世には核の抑止力がいる」と言うことだろう。
自分も「現実的ではない」という意味を含め、異論とは感じていない。
広島の人たちだって今悩んでるの。
広島で18年を過ごし、義務教育内で散々「核」については刷り込まれた。
高校三年間は卒業式での国家斉唱時、起立しないことを担任から望まれた。
今思うと、少し怖いね。しかし、沖縄と同様、そういう土地柄に成らざるを得なかった過去から未だ脱却出来ず漂っているのが広島なんだと思うね。
被爆三世、四世、五世だって、グローバル企業がイナゴの大群のように途上国の安い労働力を貪って、貪り尽くして、人権意識が高まり、賃上げ運動なんて始まった途端、安い労働力を求めて去ってゆく。残されるのは非正規社員、職を失った人々の反体制デモ。国々は大衆迎合に成らざるを得ず、他国をプロパガンダの道具にスリかえ、資源を求め他国の領土を浸食。
至ところで際どいせめぎ合い。
その中で、四方を海に囲われた壁なき日本が、丸腰でいるということが現実世界で幻想になりつつある。
それくらいのこと、広島の人だって考えているの。ただ、言葉に出来ぬ「拒絶反応」と戦っているのです。
橋下さんに対して、俺が憤りを感じるのは、
『わざわざ広島に来て、市民にそのことを言わなくても良かったろ』ということ。
この感じわかり辛いかもしれない。
カープ東出選手の『恩』という文字は見えても想いというのは相手には見えない。
行為によってのみ伝えられる。
『親の恩に報いたい』と思っていても、とうとう満足できる恩返しが出来ず、別れなければならない。
しかし、それで良いのだと思うのです。
「恩」というのは勝ち負けのようにハッキリ白黒付くモノではない。
『彼が、親が、彼女が、自分に成してくれたことを知る』ということで充分足りておると思うのです。
それすら出来ないことも多々あります。
『自分がしてあげた事』は良く覚えていても『僕にやってくれた事』は記憶の彼方へ埋没して行きやすいね。
橋下さんは弁護士です。
最後には白黒付けねば前に進めない世界で生きています。
これは仕事として必要なことです。異論は全くありません。
しかし、政治というのは「人の心を酌み取る」という難しい作業の上に成立する仕事だと思っています。
「週刊朝日」の記事に於いて、人道を無視した記事に「鬼畜」と吠えながら自分が相手の優位に立つまで徹底にやる、という姿勢には『やり過ぎ』という声もありましたが、自分はそのうようには思いません。
彼は彼の家族を守らなければならない。
その切迫した想いを遠巻きに見て、「やり過ぎ」というサンデー毎日や、一部週刊誌の論説員は少々無責任過ぎやしませんか。
仏道では娑婆の世で起きることは全て「一切皆苦」と了解済みであり、「無常」の中で一切過ぎ去り、何をどう足掻こうと「諸行無常」である。
そのように子供の頃から教わって生きて来ました。
理不尽なことにも遭遇しますが「仕方のないこと」と諦めることが多く、ストレスになることも多いです。
ストレスになるということは、要するに「この状況、頭で分かっているが許せない」ということであり、ただただ凡夫たる自分を許せず怒りが過ぎ去るのを待つしか出来ない受け身の姿勢に腹が立つという種類のストレスです。しかし、他者への怒りによるストレスと、自分への怒りのストレスでは質が違うという事は大切なことかと思います。
他者への怒りのストレスというのは嫌な匂いがするものです。
過去、政治家、いや、人の上に立つ人には、敬虔なクリスチャン、仏教徒、神道に心寄せる人物が多く居ました。
昨今問題になっている「死刑制度反対の理念につき」と死刑を執行したがらない政治家というのも多く居ました。
その善悪がどうあれ、彼らには自分の欲望を越えた場所に、発想の出発点というのがあったという事です。
自分可愛さ、自分の保身がスタート、ゴールではないという事です。
これは全ての仕事にとって重要だと思います。
自分はha-gakureというバンドをいつの頃からか「法人」のように感じるようになりました。
「公」(おおやけ)の為に、という事を判断の出発点にすると雑念が払われ、スッキリと前方が見えてくるようになりました。
それはアクセルになったり、ブレーキになったり。
家は何故落ち着きますか?
自分より大きいからです。
それに包まれ、大の字に寝転がれる場所だからです。
僕は宗教が必要だと言うてる訳ではありません。
それに近いものが判断基準であれば、君は倒れにくい、という話しをしてみたいのです。
それは或る風景であっても良し、一つの音楽であっても良い。
「ふと、我が身を振り返り、過去を問える」という切っ掛けを常にポケットに入れておけるものを手にして欲しいと思う訳です。
『決められる』政治を目指す橋下さんは白黒付ける事こそ「決める」ことだと思ってらっしゃるようだが、その判断の基準が『憂国』ならばそれも良いと思う。
同時に、『憂国』というキーワードは、左翼にも、右翼にもそれぞれの『憂国』があり、一概に『憂国』だけで判断されるのは少々心もとない。
あなたが、恐らく敢えて言い放った、広島の人々も今、とても複雑な心境で世情を見ているということ。
何となく感覚で察する事が出来る日が、橋下さんの感性に訪れる日を願う。
—————————————–今、16日、衆議院解散というニュースが流れている————————————
秋のグラデーション。
同じ色になどならなくて良い。
風景に柔らかく溶け合う人、色、光、まさにそのような味わい深い焙煎し立ての珈琲のような、ちょっとした苦味と酸味のバランスくらいが心地よい。
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