人は誰しも | ha-gakure

人は誰しも

2008.07.9


「女子高生コンクリート殺人」からもう20年だ。
当時は平成になったばかりで、俺は子供だったから当時のニュースや新聞を賑わせていたその衝撃的な事件について余り多くの関心を持ってなかった。
それが今、何でか。
多くの当時の少年らが刑期を終え、続々と出所し、結婚もし、車に乗って、或る者は再犯し、まるであの惨たらしい事件が嘘のように時は流れていっているからである。
無常とは良く言ったものだ。
事実なのは被害者の女の子が常識を逸脱した狂気の中で殺され、多くの大人は見て見ぬ振りをし、救いようのない絶望の中で彼女が地上から去ったということ。
共犯の少年達は主犯格4人、他に関わっている人間を入れると100人を超す、とある。
所謂、「責任」の所在、というものが彼らの中で不明確なのではないだろうか。
一人じゃない、という状況が暴力をより加速させ、被害者の女性の人格を希薄なものにしていったのだろう。
結果、「悪いのは俺だけじゃない」という気持ちが加害少年らに刷り込まれていったのかもしれない。
この国は法治国家と呼ばれる。
俺に言わせれば放置国家としか言いようのない法整備。
この事件は本気で胸くそ悪い。
人間という生き物はタガが外れてしまうと、どこまでも残忍になるということをこの事件は教えてくれる。
鬼畜の仕業としか言いようのない20年前の事件だが、紛れもなく、我々一人一人が闇の奥底に抱えているパンドラでもある。
誰しも鬼になる可能性を持ち、日々ギリギリの所で鬩ぎあっているのだろう。
彼ら少年達を鬼に変えたものが一体何なのか、
被害者の女の子は何故あのような惨い目に遭わなければならなかったのか、
この世界に本当に光は射すのか。
いつまで憎しみ合わなければならないのか、
家庭環境の責任にするのは簡単だろう。
しかし、今後益々格差は広がり、家庭は更に複雑に交差し、子供は孤独に耐えなければならないだろう。
それでもまだ家庭環境を持ち出すのだろうか。
他人事丸出しである。
こういう事件は二度と嫌だ。
その為に何が出来るかを多くの人が考えるようになったらきっと少しは具体的に防衛できることはあるかもしれない。
俺は幸いにして音楽と言葉の近くにいる。
これを手段として何らかのアクションを起こしていかなくては嘘だと思う。
あれから20年、今後も風化することなく伝えていかなければいけない。
非常にやり切れない想いだが、、それでも俺は人間を信じたいと思う。