これまでのこと | ha-gakure

これまでのこと

2011.10.21


ha-gakureは19年11月十三ファンダンゴでのライブを最後に休止に入りましたが、俺の中ではもうやらないだろうと思ってました。本当にスタジオ行くのも辛く、一体何を目的にすれば良いのか分からず、ひたすらスケジュールをこなすだけの日々でありました。
なんで俺がそんなことになったのか、自分のことですから重々承知しておりましたわ。
しかし、それをぶつけ合うことも何度もあったが、根本的な解決にはならず、いや、根本的な解決など存在しない問題だった。止めるしか方法がない。
そういった状況が続いておりました。
人間というのは自分の立場でしか他人を思いやれない。
つくづくそれを実感したのがこの頃の俺でした。
結成から11年、特に奴とは十九、二十歳の頃からの付き合い。
何かと不思議な距離感を保ちつつ、互いに尊敬し合い、ここまで来た。お前がおってくれたからここまでやって来れた、ってのが俺の正直な気持。
片一方が折れそうになったら一方が支え、叱咤、激励しながらほとんどの時間を共有して来た。
しかし、時の経過と共に互いの生活環境も変わる。守るべき家族が出来たり、仕事が変わって責任が大きくなったりする中で、バンドと向き合う時間、濃度、意識も変わってくる。
俺は役僧という仕事の傍らでバンドを続けて来た。役僧というのは大きな寺院に雇われ法務をする僧侶の事で、決まった月給を貰うサラリー僧侶である。俺が雇ってもらっていた所は役僧が10人もいるような大きな寺院で、或る程度休みも自由に貰える環境だった。
よってバンド活動との二足の草蛙は大変スムーズで、インディーバンドにとっては最高の環境であった。
それが崩壊したのが平成18年の盆だった。
高速でのスピード超過と軽微な違反が累積し、普通免許の剥奪。一年間の再取得禁止という縁に遇う。
大きな寺院での法務は遠距離が多く、車が運転出来ない坊さんなど不要なのである。
即日退職願いを出し、路頭に迷う。
運良く知り合った寺院が臨時で雇ってくれて、自転車で移動出来る範囲の法務に就く事が出来たが、歩合で、しかも暇な寺院であった為、とても暮らせない。
そのような混沌とした中、バンドのみが俺の心の支えであった。
出会いというのは必然なのだろうか?
その頃、俺が先生と呼び、一生頭が上がらない人に出会うことになる。
その方とは、この暇な寺院にヘルプで入って来た葬儀に俺が住職の代わりに行ったことで出会うことになる。
この寺院の住職と先生が知り合いで、そこに先生が手の回らない葬儀のヘルプを頼んだが、住職も忙しく俺が代わりに行くことになり、葬儀が終わった後、お茶でもということになり、先生との初対面を果たす。
そこで先生は俺の過去、現状を良く聴いてくださり、良かったらうちで働かないかと誘って下さった。先生は元教師で脱サラして住職資格を取り、寺はないが勢力的に法務をなさる方で、書道教室を開きながらフリーの僧侶として活動されておられる方であった。
俺はその開き直った姿に初期衝動を感じ、その門下に下り指導を仰ぐことになる。
人間30歳を越えて本気で怒られるなんてそうそう無いだろう?
俺なんか「君は駄目な奴やけど、まぁ人柄がええし、まぁええか」と許され続けて来た生臭よ。
「字が下手、声駄目、話退屈、ええかっこばかり、舐めんな小僧、コラワレ、この世界で生きれんようにしたろうか」怒声が飛ぶ、円形脱毛症なんてザラ、何をするにも萎縮し、人格を破壊され、プライドもズタズタ、自信喪失、そういった日々が毎日、朝尼崎の教室で夜まで続く。法務では檀家の後ろで先生がいつも参観していて、終了後は無制限のミーティング。
もうやめたい、、そう思った頃には俺の字は格段に上達してて、お経読んでも檀家さんが喜んでくださり、法話にも感謝してくださるというリアルな感触があった。
今では感謝してもしきれないのだ。
それは俺にとってとてもクリエイティブな時間だった。人に寄り添い、死と向き合い、生を問い、別れの中から多くを学び、悲しみから徐々に立ち直っていかれる人々に有り難うと言ってもらえる不思議。ここには俺がバンドで目指して来た世界があった。俺の中では完成された充足のサイクル。
ちょうどその頃、スタジオに向かう車の中で、奴に話したんだな。
「俺、目指すもんがここにあったわ。先生は一道を歩め言うて聞かんのじゃ。それが本当に必要な道なら自ずと二足の草蛙にもなろう。しかし今の君見とったら、無理ヤリ二足履こうとしとらんかって」
「やめろって?あの坊さんが?」
「まぁ止めはせんがのバンドは、ほんでも俺初めて僧侶の気概っていうもんに今触れとる気がするんよ、今までエエ加減やったわ、ほんま申し訳がない」
「申し訳がないって、どっちに言うとるんや?そっちは仕事に身が入って楽しいかもしれんが、それを聞かされたこっとの気持にもなってくれや、こっちは必死でバンドやっとんねん。」
「あ、、いや、だからと言ってバンドがつまらん訳じゃないねん、、」
このやり取り以降確実にオカシクなってしまった。
歩みの速度が代わり、俺が必死で付いて行ってたけど、とうとう追いつくのがしんどくなり、何の為に追いつこうと必死で走ってるんかわからんようになっていった。
そして休止。その間、俺は先生の薦めもあり、自坊の大阪分院というカタチで先生と同じ様に伽藍はないが、俺自身が寺だ、という気概一つで懸命に活動した。
それから二年が経った頃、俺は結婚式を上げた。
披露宴で久しぶりであいつとセッションした。
それがとてもシックリ来た。驚くほど。
それからまもなく、もう一度やりたい。しかし、気持は依然のようには取り組めないかもしれない。
ビジネスにするつもりもない。ただええ曲をみんなで作りたい、だいたいそのような事を懸命に伝えたと思う。誤摩化したくなかったから正直な気持を伝えた。
それを受け入れてくれて二年越しにバンドのある生活になった。
しかし、違和感は残っていた。
俺が歩みを止めた二年、歩みを止めなかったあいつの音。
同じ路を歩いていても、歩幅は全く異なった。
気が付けば必死で歩調を合わせ、迎合し、顔色を伺うばかりの俺がおった。
何も変わっていないのは俺だった。
それでも時間が解決するだろうという楽観的な気持、それにも増して、二年休んでいる内に出て来る言葉も音も全く変わっていて、毎日実験と驚きと好奇心の連続で、ある意味初めてサンプラーを触った時の初期衝動にも近い感覚の中でバンドをやれていたってのもあり、再度、歩みを止めるなんて毛頭なかった。
そして22年5月、再結成ライブを迎えるが、その直前まで仕上がらない曲があり、それを巡ってちょっとした攻防があった。俺はお金貰う以上、完全な曲だけで勝負するべきだし、ハンパな曲出すなら過去の曲を混ぜるべきだと主張、一方、あいつは例えハンパでも名刺代わりにハンパであろうと勝負に出るべきだと主張した。結局俺の案が取られたんだが、今思えば、そこに互いの音楽に対する意識や、歩みを止めた人間と止めなかった人間との温度差というものが現れていたかとも思うのである。そのスタジオの帰り際、今度はあいつの方から「俺もう無理や、やめたい」ということを伝えられた。
再結成直前という事もあり、俺は腰が抜けそうになったが、一方で「本当申し訳なかった、、お前はもう俺のずっと先を歩いてて、お前は俺に合わせ続け、何度も振り返り呼んでくれとったんじゃな、
もう疲れたろ、、今まですまんかった」という気持の方が強く、むしろ、これで元々よな、という妙な安堵感があった。ここは他のメンバーとは多少気持のズレがあったように思う。怒りも悲しみも不安もなく、ただ安堵した。この感覚はあいつも同じだったんじゃなかろうか、と今もずっと思っている。あいつの歩みを止めるものがなくなった、という事はとても幸せなことじゃないか。
俺は長いことあいつと同じ歩幅であるけて幸せだったよ。人間、色んな機縁に出会い、歩みというのは変わってくるだろう?だけど、あいつの凄いところはね、変わらんのよ。長い付き合いだからこれまであいつの歩みが変わってもおかしくない瀬戸際は何度か見てる。でも一向に変わらんかった。
俺も自分が今一番丁度ええ歩幅で歩きたい、あいつにも丁度ええ歩幅で歩いてええ音探して欲しい。
俺は今一番丁度ええ歩幅で歩いとる。ええ音出とる。
再結成ライブから半年後くらいの来年一月末あたり冬の京都でライブしたいと考えとります。
その後、機会狙って大阪で出発ライブ企画したと考えております。
この間、声を掛けて下さった多くの皆様、断ってばかりですんませんでした。
また前にも増してマイペースにええ音探して頑張りますんでよろしく御願いします。