賛否両論在ると思いますが | ha-gakure

賛否両論在ると思いますが

2012.03.5


気になるアーティストが居たら最初にYouTubeで検索掛けて、あぁこんなんか、で終わる場合が多いね。
こんなん無い時なんか噂のバンドは一か八か音源買ったもんね。
ジャケ買いとかね。バンドにとってもリスナーにとってもトキメク時代やったな。
さて、しかしいよいよ息苦しくなってきたね。
肉屋芸人のたむけんが「被災地の瓦礫受け入れて、日本人全体で助け合わなきゃアキマセンね」という発言でTwitter炎上、誹謗中傷、営業妨害書き込み多数だって。
滅入るなぁ。
反対なのは別にいいけどアプローチがね陰湿やわ。
生まれ落ちた環境も千差万別。育った状況も色トリドリ。
生命体という同じカテゴリー、哺乳類という同じカテゴリー、同じ人間というだけで共感をすること、求めること、それに応えることこそ人として最上というのは無理があんねん。
放射能に関してはあなたとは意見が違うというても反対の主張の仕方がどうも昨今ヒステリックになりつつあるのが気になる。
こうなると陰謀、偽装、疑念が先立ち冷静な判断も出来ず何も信じられない不安地獄で停滞してしまって気の毒な程だ。
どなたにも価値あるものの価値は違うだろう。守りたいものも、捨てたいものも、善悪の判断基準も、生死観も、好き嫌いも。だけど執着する余り、一体何の為に否にこだわっているのか見失ってしまって反対することが目的になっちゃったら悲しいね。
日本語で通じ合えると言うても話が通じない関係もたくさんある。
ありゃりゃ、こりゃナンボ話しても君とは無理かな?という出会いもある。確かにある。
そういう時どうする?
距離を取って行くか、接する機会を減らして工夫するか?何が何でも理解し合うぞ、話合うぞ言うて消耗戦やるか?そうそう出来るもんじゃない。
しかも時には互いが理解し合えるまで話せる時間がない時もあろう。
早急な対応が求められる場合ね。とにかくこの人と話を付けなくては前に進めない時。そういう時は相手の顔色伺って批判を恐れてる暇もないから自分が信じる選択を思いきって取るしかなかろう。
未来の為、石のように動かない現在を動かしてゆく為にね、ここ一番の場面では覚悟と勇気は必要です。
被災地の瓦礫を我が町に受け入れることに関しては、連日の地域説明会の混乱ぶりから、想いは個々にあるのは重々承知です。
だけどね、良く分かるんやけどね、ちょっと待ってと言いたい気持ちを抑えられない。
賛否については、もはや言語は役に立たない。
こういう案件、そもそも反対する方が意志が堅いもの。賛成派とはいえ本音はどちらでも良い、または心配やけど責任持って処理してくれるなら、という消極的な気持ちだから潜在的反対派が大多数だろう。
だいたい地域説明会に来てる人の多数は瓦礫が安全かどうか知りたい為に出席しているのであって、明確な意思のない状態で後ろの席から大声で反対反対反対!国の数値は安心できない!騙されないぞー、と恫喝されたら萎縮してもうて、何となく反対派が大多数みたいな印象を与えてしまう。
どうもやり方がサヨクの方、日教組、総会屋を彷彿とさせてしまう。声を大にして賛成を叫ぶなんてちょっと出来ない雰囲気になってもうとるやん。
なにか目立つこと言えば匿名で誹謗中傷、集団で追い込んでゆく。歪んだ教室みたい。
このやり方が現代日本人からどれだけ積極的かつ生産的な意見や行動力を奪ってきたか。
皆で手を繋いでゴール、沈没する時は一緒、抜け駆けは駄目、嫉妬、偏見、誹謗中傷の嵐、いややわ。
こうなったら数字、数値というのが賛成反対両者の唯一の言語のはずなのに、感情的になってしまってはもうどうにもならない。
信じる道を「我がのまま」生きることは素敵なことよ。
だけどそこに他人が介在するならば、それは「我が儘」としか映らないのですよ。
はっきり言うて誰しも反対ですよ。だけど瓦礫に埋もれた町で困ってる人らの気持ちと、日本全体の百年先を見た時、反対ばっか言うとれんな、という結果の末のギリギリの賛成じゃない?
先方無視で我のことだけ、地域のことだけの反対はやはり違うと思うよ。進まない瓦礫処理の現状を色々調べてたら書かずにはおれない。
わかるよ、気持ちは、自分の為じゃない、未来のこどもたちの為っていう気持ち筋通ってるし反対する気持ちも痛いほどわかるよ。
俺だって積極的じゃないもん。
出来たらやめてほしい。
だから反対する人らを攻める気持ちはない、少し考えてほしいだけ。本当にこのままでええの?今年の2月、雪に埋もれた瓦礫集積場の山のような瓦礫の映像みたよ。去年から全く減ってないその光景を津波に飲まれて幾多の死に遇われた人々が住む町に延々と放置しといてええの?自己責任でお前らで処理せえ、ってアカンよそれは。そんなこと言うたらだめよ。もう腹決めないかんのよ。
この時代に同じ日本に生まれて、3.11に立ち会ったということは余程の縁や。逃れようのない因縁としか思えない。
だって他におらんもん。世界の何処に放射能汚染された瓦礫引き取ってくれる場所ある?日本人しかおらんでしょ。
同時代に日本人として生きてたっていう薄い縁だけどね、それだけが頼りなんじゃない?もはやね。
先ず、うん、受け入れるよ、大丈夫よ、言うて安心させてあげてからしか本当の復興は出来んと思うもん。
反対の情熱は、どうしたらリスクの少ない処理が出来るか、また市民団体は統率力を活かして瓦礫受け入れ後の府や市の数値のごまかしや、不正がないか監視してっていうところに向けたらどうかな。
山本太郎がリスク無視で原発反対運動してて俺はある意味ヒキながらも尊敬してたしそっと応援もしてた。すぐには無理としても大きな方向性として原発リスクのない国に住めるに越したことはない。そんな山本太郎が瓦礫受け入れの市民会議みたいな場所に顔を出して反対、反対、とにかく反対って市民を煽ってるのをみて、そっちの活動は何か違う感じがした。
俺らは3.11、震源地から離れていようと地震を体験し、津波に呑まれる人々や町の映像を観て、胸を痛めたと思うし、何が出来るか自問自答したと思う。共感しよう、共感しようとしても腹は減る、申し訳ない気持ちで腹一杯食べながら避難所の中継観て混乱もしてたと思う。
それぞれの立場、環境の中で被災地に心を寄せつつも、その後、あれほど「絆」「きずな」と連日煽られては共感出来ない自分は薄情なのか?または、「こっちにはこっちの事情があるのよ」と一体気持ちをどこに持っていけば良いのか、または反発もしたくなるわ、という気持ちにもなったりな、混乱してしまうこともあったもん実際。
それぞれの正義があろう。それぞれに何より大事にしたいものも違うだろう。だけど今も全く減ってない南三陸や名取、南相馬の瓦礫の山を見たら普通にアカンと思っただけ。ただそれだけ。
思想も哲学も放射能の知識や数値も詳しく知らん。だけどこのままじゃ駄目ってことだけはわかる。ただそれだけ。
自分の町に瓦礫が来るかもしれない。
心配は心配よ。
だけどねこの時代に生まれたということの意味と受けて来た恩恵と、今、成すべき道だけに心を寄せてシンプルに道を選択したい。
それぞれに想い、信念があられる方々が存在するネット上に私的な意見を発信して気分を害された方も大勢いらっしゃることと思います。傷つけてたら謝ります。すみません。
このようなデリケートな話題に私的なアプローチをして不特定多数の方が拝見するネット上に流すことは結構な勇気がいるものですね。たくさん炎上してるもんね。書いてから数日躊躇してましたが最後に本名を署名するということで多少のケジメも付くかと思い発信してみようと思いました。
2012.3.5  高山泰秀